■前回のあらすじ

時は平安末期の治承四1180年、源頼朝(みなもとの よりとも)と共に平家討伐の兵を挙げた北条義時(ほうじょう よしとき)は、苦境を乗り越えて勢力を築き上げ、富士川の合戦では平維盛(たいらの これもり)率いる軍勢の撃退に成功します。

勝利の勢いで一気に京都へ進撃したかった頼朝に対して、朝廷と距離をおいた武士の別天地を夢見る御家人たちは「坂東の勢力基盤を固めるべき」と鎌倉への帰還を促します。


その意見に従った頼朝の決定が、後に「武士の世」を築く上で重要なターニングポイントとなるのでした。

前回の記事

源頼朝の遺志を受け継ぎ武士の世を実現「鎌倉殿の13人」北条義時の生涯を追う【六】

■鎌倉に凱旋した頼朝、宿敵・大庭景親を処刑

さて、晴れて鎌倉に凱旋した義時たち一行の前に、かつて石橋山の合戦(8月23日)でさんざんに頼朝を苦しめた強敵・大庭平三郎景親(おおば へいざぶろう かげちか)の姿がありました。

石橋山で頼朝たちを取り逃がした後、あれよあれよと言う間に膨れ上がった大軍になすすべなく、山岳部に立て籠もったものの10月23日、ついに頼朝の軍門へ降ったのです。

「その節は我ら一同、誠に世話になったのぅ……」

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引き出された景親(イメージ)。

死地を彷徨ったあの敗北からちょうど2か月、両雄の立場は見事に逆転していました。頼朝は御家人の一人で、景親の兄である懐島平太郎景義(ふところじま へいたろう かげよし)に問いかけます。


「おい、懐島の。お前ェの弟、助けてやろうか……?」

たとえ腹違いとは言え、弟は弟。助けて欲しくない訳はありません……が、ここで「敵」に情けをかける様子を見せれば、今後自分や一族の立場が危うくなりかねません。

「……佐殿にお任せ致しまする」

殺すなとは言えないが、殺せとは言いたくない。こうなったら、頼朝に判断を任せるよりありませんでした。そんな心情を察した頼朝は、景義に命じます。


「そうか……ならばそなたが斬れ」

せめてもの情けなのか、あるいはとんだ悪趣味か……頼朝の下知に、一同は騒然としました。処刑するのは当然としても、何も兄に斬らせることはなかろうに……。

「佐殿。兄は脚が悪く太刀筋が覚束ず、討ち損じるおそれがございますゆえ、ここはそれがしが……」

名乗り出たのは景義と景親の弟である豊田平次郎景俊(とよだ へいじろうかげとし)。景義は保元の乱(保元元1156年)で敵将・源為朝(みなもとの ためとも)に膝を矢で射られ、騎馬はもちろん歩行もままならぬ状態です。

※保元の乱における景義と景親の武勇伝はこちら。


決死の作戦と兄弟愛!天下一の強弓・源為朝が唯一倒せなかった大庭景義の武勇伝【上】

決死の作戦と兄弟愛!天下一の強弓・源為朝が唯一倒せなかった大庭景義の武勇伝【中】

決死の作戦と兄弟愛!天下一の強弓・源為朝が唯一倒せなかった大庭景義の武勇伝【下】

「……我が命じた通りにせよ」

命令に対して、余計な解釈や代替案など求めておらぬ。ただ従え……そんな頼朝のメッセージを受け取った一同はそれ以上誰も反論することなく、景義は固瀬河(現:神奈川県藤沢市)のほとりで泣く泣く景親を処刑。10月26日のことでした。

■よくわからないけど褒められた!

そんな事もありましたが、それまで敵対していたほとんどの者は赦免されて頼朝の御家人となり、義時や父・北条時政(ときまさ)など挙兵当初から従っていた者については、大いに褒賞されました。

「流人の身であった佐殿が、ここまで立派になられようとは……」

「さすがは姉上(頼朝の正室・北条政子)の見込んだ男、と言ったところでしょうか」

「あの時は本当に肝を冷やしたが……ま、結果オーライかのぅ」

頼朝の「身内」として苦楽を共にしたことで信頼を勝ち取った北条一族は、頼朝から重用されて家子(いえのこ)に取り立てられます。

家子とは門葉(もんよう。
義経など、源氏の血縁者)とその他の御家人との中間に位置する「特別な御家人」と言った存在で、中でも義時は「家子の專一」と呼ばれるほど寵愛を受けていたようです。

さて、常陸国(現:茨城県)の佐竹(さたけ)氏らを倒して坂東に勢力基盤を固めつつあった寿永元1182年11月。義時はいきなり頼朝に呼び出されます。

「江間小四郎義時、参りました」

源頼朝の遺志を受け継ぎ武士の世を実現「鎌倉殿の13人」北条義時の生涯を追う【七】


呼び出された義時。前にも似たような状況が……(イメージ)。

いったい何の用だろう……そう思った義時が参上すると、頼朝は欣喜雀躍。
鼻先が触れそうな距離まで迫って来ました。

(近い近い近い近い!)

「あの……佐殿、此度はいかなる御用向きで……」

「え?あぁ。いや、その……うん」

本当に何があったのか、どう見ても頼朝の様子が変です。

「まぁいいんだ。何でもないんだ。そなたの忠義、しかと解った!追って褒美を沙汰するゆえ、もう下がってよいぞ!」

「……はぁ……?」

さっぱり意味が判らないまま退出した義時でしたが、後から周りの者に聞いたところ、自分の知らないところで色々あったようです。


■浮気が原因で勃発!壮絶な夫婦喧嘩

頼朝がなかなかの「女たらし」であったという話は以前にしたと思いますが、政子と結婚してからは、彼女が浮気を許しませんでした。

と言って、それでキッパリやめられるくらいなら、そもそもこの世の男女問題など、その93%が存在しない筈なのです。

バレなきゃいいんだ、バレなきゃ……頼朝は伊豆国に流されていた頃から可愛がっていた亀の前(かめのまえ。おかめ)という女性を、右筆である伏見広綱(ふしみ ひろつな)邸に連れ込んで密会していたのでした。

……しかしこういう場合、大抵バラしちゃう奴が現れて、修羅場になるのがお約束。バラしたのは舅・時政の後妻で、政子の継母に当たる牧(まき)の方。

源頼朝の遺志を受け継ぎ武士の世を実現「鎌倉殿の13人」北条義時の生涯を追う【七】


時政を化かし、鎌倉を混乱に陥れた女狐(イメージ)。

こいつがなかなか嫌な奴で、後々まで鎌倉武士団にトラブルの火種を持って来るのですが、若くて綺麗だったのか、妻に先立たれて寂しかった時政を、その意のままに操ります。

ともあれ政子は大激怒。牧の方の父(一説に兄)である牧三郎宗親(まき さぶろうむねちか)に命じて伏見広綱の屋敷を破壊させました。

「そんな無茶な!」

広綱にしてみれば、ただ亀の前を預かっていただけなのに、屋敷をまるごとぶっ壊されてはとばっちりもいいところです。

しかしこのまま亀の前を引き渡そうものなら、何をされるか分かったもんじゃない……広綱は亀の前を逃がすと共に、自分の身も危ないと姿を消してしまいます。

「おのれ、政子め!」

政子の差し金による襲撃事件を知った頼朝は逆ギレ、とりあえず宗親を呼び出しました。

(宗親は舅・時政の舅だから、自分にとっては義理の祖父に当たり、手を出しにくいが……かまうものか!)

完全に逆上していたものの、政子を直接責めることは出来なかったため、とりあえず宗親の髻(もとどり。結髪)を切り捨てるという暴挙に出ます。

この時代、烏帽子が外れて髻が人前に晒されるだけでも非常に恥とされたのに、さらに切り捨てるとは、死にもまさる屈辱でした。

■奉公は実に難しい……何はともあれ一件落着

「おのれ……この怨み、晴らさでおくべきか!」

髻を切り捨てられた宗親は恥辱のあまりその場から逐電、そのまま行方をくらましてしまいました。

「あぁ……あなたは父上がかような仕打ちを受けても、泣き寝入りなさるおつもりですか!」

牧の方から突き上げられて、時政は頭を抱えてしまいます。まったく佐殿め、こっちの面子も考えず……。

「そもそも、佐殿なんて元をただせば流罪人。それが今日あるはあなたのお引き立てあってこそ……にも関わらずこの仕打ち……もはや堪忍なりませぬ!」

義父上はもちろんお気の毒としても、若い後妻の前で恥をかかせおって……そういうつもりなら、こっちにも考えがある……という事で、時政たちは一族をまとめて鎌倉を去り、伊豆国へと帰ってしまいました。

源頼朝の遺志を受け継ぎ武士の世を実現「鎌倉殿の13人」北条義時の生涯を追う【七】


怒って伊豆国へ帰ってしまう時政たち。鎌倉の運命やいかに(イメージ)。

「何だと!」

時政が離反したとの報せを受けた頼朝は、大いに慌てふためきます。ようやく鎌倉の地盤を固めつつあると言っても、それは御家人たちの支持があってこそ。その筆頭である北条一族が離反したと知ったら、他の勢力もどうなってしまうか分かりません。

「小四郎(義時)は?小四郎はおるか!」

ほぼ半狂乱で頼朝は叫びます。手許においていた義時までいなくなっていたら、北条一族の謀叛は決定的……鎌倉はもう終わりです。

が、義時は鎌倉に残っていました。だからあんなにも頼朝は喜んだのですが、どうも義時は牧の方から疎まれていたようで、それで北条一族からハブにされていた可能性もあります。

やがて時政も頼朝と和解、鎌倉に帰ってきてひとまずは一件落着。何が喜ばれ、何が勘気に触れるのか……奉公とは実に難しいものだと思ったことでしょう。

【続く】

※参考文献:
細川重男『頼朝の武士団 将軍・御家人たちと本拠地・鎌倉』洋泉社、2012年8月
細川重男『執権 北条氏と鎌倉幕府』講談社学術文庫、2019年10月
坂井孝一『承久の乱 真の「武者の世」を告げる大乱』中公新書、2018年12月
阿部猛『教養の日本史 鎌倉武士の世界』東京堂出版、1994年1月
石井進『鎌倉武士の実像 合戦と暮しのおきて』平凡社、2002年11月

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