今回は、【前編】に引き続き、今川義元の家督相続の道程をご紹介する。
前回の記事
5男から今川氏当主へ。戦国大名「今川義元」の家督相続物語 【前編】
■還俗から当主候補へ
当主継承の可能性が低いと見られていた義元だったが、当主・氏輝と次男・彦五郎の相次ぐ死によって有力な継承候補となる。
寿桂尼の子であることを理由に当主継承を乞われた義元は還俗した。その際に主君である室町幕府12代将軍足利義晴から偏諱を賜って、正式に「義元(よしもと)」と名乗った。
しかし、今川氏傘下の有力国人であった福島氏が義元の家督相続に反対。外戚にあたり、氏親の3男である義元の庶兄・玄広恵探(げんこうえたん)を擁立し、義元方に反旗を翻した。
■花倉の乱(はなくらのらん)
寿桂尼の尽力によって義元方と恵探方は話し合いを試みるも失敗。1536年。恵探は駿河湾に面した久能城を拠点に挙兵。義元の居る今川館を襲撃する。
しかし、義元方は参謀である太原雪斎の活躍などもあり、返り討ちに成功。恵探方は花倉城まで退き抵抗を続けた。
玄広 恵探が籠もった「花倉城」跡(Wikipediaより)
義元は恵探方の支城を落とし花倉城を包囲。城攻めを開始する。追い込まれた恵探は逃亡先の瀬戸谷の普門寺で自刃した。享年19。
今川家中のお家騒動に発展した「花倉の乱」は2週間程度で終息しており、武田氏や北条氏の援護を受けた義元方の圧勝であったという見方が通説とされている。しかし、恵探方の後ろ盾となった福島氏は、遠江の高天神城を中心に勢力を有した一族であり、恵探方の支持基盤もそれなりの規模であったことを理由に、大規模な内乱とする説も存在する。
■東海道の支配者へ
玄広恵探の死によって今川氏の内乱は平定されるが、家中に遺恨は残った。遠江一体には依然として反義元勢力が燻り、武田氏と同盟を結んだことで関係が悪化した北条氏と共に義元を苦しめた。

今川義元(Wikipediaより)
義元は武田氏との協力関係を維持しながら、上杉氏との同盟を結ぶ。対北条体勢を有利に展開しつつ、三河の松平氏の帰順に成功したことを足掛かりに、国内外の情勢安定化を進めた。
以後、室町幕府との関係を完全に断ち切り、事実上、守護大名から独自に領国を統治する戦国大名への転身を宣言。駿河・遠江から、三河や尾張の一部に至る広大な領土獲得に成功。
戦国時代における今川家の最盛期を築き上げることとなる。
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