平安時代末期の武家政権誕生によって、日本では武士中心の時代が幕を開けた。その中で、武士や貴族の支配に抗い独立した権威と武力を持った存在が「延暦寺(えんりゃくじ)」だ。


今回は、時の権力者に屈服せず、独自の支配体制を保ってきた寺院・延暦寺の武力についてご紹介する。

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■延暦寺の起源

延暦寺は京都府と滋賀県に跨がる「比叡山(ひえいざん)」全体を境内とする寺院である。開祖は平安時代初期の僧侶「最澄(さいちょう)」。

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最澄(Wikipediaより)

15歳で出家した最澄は、郷里の近江に近い比叡山で修行し、788年に「一乗止観院(いちじょうしかんいん)」を創建。その後、唐に渡り「天台山」で天台教学を学び、日本天台宗の基礎を作った。

806年。天台宗は開宗が許可される。最澄の悲願は日本の旧仏教から独立し、天台宗の僧侶を養成する事であったが、達成を見ずに死去する。僧侶を公認・育成するための儀式を行う場「戒壇」の設立許可が降りたのは最澄の死後7日目の事であった。

最澄の死後、天皇の勅命により「延暦寺」の寺格(寺院の格式)を賜り、「比叡山延暦寺」と呼ばれるようになった。

■武装化の背景

独自の支配体制を保ち源頼朝や織田信長も恐れた僧兵集団 「比叡山 延暦寺」の武力【前編】


延暦寺根本中堂(Wikipediaより)

延暦寺の武装化のきっかけには大きく2つの要因が関係している。


荘園の存在 中世の日本では、社会的に一定水準以上の権勢を有した家柄や集団に対して「荘園(しょうえん)」と呼ばれる土地が国から与えられた。寺社も荘園を所有することが可能であり、延暦寺は巨大な荘園を有していた。荘園を巡っては争いが絶えず、延暦寺は対外勢力から自身の荘園を守るために武装化が進行したと考えられる。

内部対立 延暦寺は日本の仏教史に名を残す名僧を数多く輩出したが、自ずと派閥や宗派間の争いも発生した。9世紀から10世紀頃には対立や抗争が激しくなり武装発起が起こる。こうした中で僧兵が発生し、寺社内の武装化が進んでいった。

【後編】へ続く

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