そして、男色は室町時代以降、特権階級から庶民にまで広がったそうです。
そして、江戸時代には武家社会における作法を含む「衆道(しゅうどう)」という言葉が誕生しました。
いにしえから生まれ宮中や寺院で流行った男色、そして精神的なつながりを重んじる武士社会で浸透した衆道……どのようなものだったのでしょうか。
■男色文化の始まり
「神功皇后」歌川国芳 作(写真:wikipedia)
日本の男色に関する最古の記録は、720年成立の『日本書紀』の神功皇后の項にあります。
当時、昼間太陽が姿を消し夜のようになった日々が続きました。神功皇后がこの怪異の理由をある老人に尋ねたところ、
小竹祝(しののはふり)※1と云う男性が病気で亡くなったことを悲しんだ、親友の天野祝(あまののはふり)が後を追い、この世を去ってしまいました。
祝(はふり)※1:神職の役名
天野祝の希望通り二人を合葬したところ、神様がその行為を「阿豆那比(あづなひ)之罪」と考え、昼間でも暗くしてしまったとのことを告げたのです。
当時、神職は死しても生前に使えていた神に仕えることとされ、神社ごとに神職を埋葬する場所が決まっていたために、二人を合葬したことが罪であった……と伝わりますが、同性愛の罪によるものとする説もあります。
「日本書記」以外にも、万葉集や伊勢物語、源氏物語などに「男色」の記載があり、当時は、宮中や寺院などで男色が流行していたと考えられるのです。
■美少年・世阿弥に魅せられた将軍

大日本名将鑑 足利義満公(月岡芳年画、ロサンゼルス・カウンティ美術館所蔵)(写真:wikipedia)
そして、武士の勢力が増してくると男色は武士の間にも広がるようになりました。
南北朝の合一や鹿苑寺(金閣寺)の建立した室町幕府3代将軍足利義満は、男色文化を取り入れたことで知られています。
義満は16歳の時、新熊野神社で行われた当時の能役者・観阿弥の興行を父と一緒に観に行った際、観阿弥の息子・世阿弥(11 歳)に出会い、その美少年ぶりにすっかり魅了されてしまいました。
そして、世阿弥を寵童として世阿弥一座を庇護するようになったのです。
当時、能役者の身分は非常に低いものでした。足利義満は祇園祭の桟敷席に世阿弥を招き、同じ器で酒を酌み交わしていたことは、周囲の人々に大きな衝撃を与えました。義満は、絶対的権力者でありながらこの点に関する限り、大いに批判をされたと伝わります。
たとえば、内大臣になった貴族の三条公忠(さんじょうきんただ)は、世阿弥のことを「散楽もの」で「乞食の所業をするもの」であると手厳しい表現で 日記にしたためていました。
将軍などに寵愛を受け男色の相手をすることは、才能がありながらも身分の低さに甘んじざるおえない人びとにとっては、出世や庇護を受けるための手段であったといわれています。

若衆のイメージ。「松竹梅若衆雛形 曙山」(歌川豊国)
そして、江戸時代に入ると、武士特有の男色文化「衆道」が本格化。衆道とは、どのようなものだったのでしょうか。
【後編】でご紹介します。
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan