……与一目をふさいで南無八幡大菩薩別しては我国の神明日光権現宇都宮那須温泉大明神願はくはあの扇の真中射させて賜ばせ給へ……

【意訳】
与一が目を閉じて念じるには「南無八幡大菩薩、そして我が故郷の神々よ、どうかあの扇の真ん中を射止めさせたまえ……」

※『平家物語』より。以下同じ

時は平安末期「源平合戦」のハイライトとして有名な「扇の的」。
弓の達人として知られた那須与一(なすの よいち)が源氏方の大将・源義経(みなもとの よしつね)に命じられ、平家方の船に掲げられた扇を射止めようとするシーンです。

勝てば何でもありじゃない!源義経の命令で射殺された黒革縅(く...の画像はこちら >>


扇の的を見事に射抜き、大役を果たした那須与一。楊洲周延「那須与一」

形勢不利な平家方の挑発に応じて、矢は見事に扇の要(かなめ)へ命中。弓馬に秀でた坂東武者の面目を大いに施します。

神がかった与一の妙技に源平両軍から歓声が上がる中、その事件は起きたのでした……。

■感極まった武者の舞いを……

あまり感に堪えずと思しくて平家の方より年の齢五十ばかりなる男の黒革縅の鎧着たるが白柄の長刀杖につき扇立てたる所に立ちて舞ひ締めたり

伊勢三郎義盛与一が後ろに歩ませ寄せて御諚であるぞこれもまた仕れと云ひければ与一今度は中差取つて番ひよつ引いて舞ひ澄ましたる男の真只中をひやうつばと射て舟底へ真倒に射倒す

ああ射たりと云ふ人もあり嫌々情なしと云ふ者も多かりけり……

【意訳】
与一のあまりに素晴らしい腕前に感動を抑えきれなくなったのであろう、平家方から50代と見られる黒革縅(くろかわおどし)の鎧を着た男が、長刀(なぎなた)をもって舞い始めた。
これを見た義経の郎党・伊勢三郎義盛(いせの さぶろうよしもり)が、与一に「義経様のご命令ぞ。あの武者も射よ」と伝えると、与一は中差(なかざし。戦闘用)の矢を番(つが)えて黒革縅鎧の男を仰向けに射倒す。
この様子を見た両軍の反応は「あぁ射たな」程度の者から、「いやはや、何と情ない……」と嘆く者まで様々であった。

勝てば何でもありじゃない!源義経の命令で射殺された黒革縅(くろかわおどし)の鎧武者


与一の妙技に奮い立った老武者(イメージ)。

現代でも、たまにいますよね。
例えばスポーツ観戦で、あまりの名プレーに感極まってフーリガン的なパフォーマンスを演じてしまう方とか。

そういうお調子者はたいてい警備員によってスタジアムからつまみ出されてしまうのですが、中学校の国語教科書でも、この事件についてそういう感覚で書かれたテキスト(平家物語の読書感想文)を目にしました。

曰く「TPO(時と場所と状況)をわきまえて(舞わずに)いれば、この黒革縅鎧の男も情けなく射殺されることもなかったろうに……(要約)」とのことでしたが、当時の武者たちが「情なし」と言ったのは、そういうことではないのです。

■勝てば何でもいい訳ではない

ここで言う「情なし」つまり非難の的となっているのは、黒革縅鎧の男を射殺すように命じた義経です。

黒革縅鎧の男は50代という当時としては非常に高齢で、むしろ老人と言ってもいいでしょう。そんな彼一人を今さら射殺したところで源氏方の勝利に変わりはなく、敗者をいたぶるような振る舞いに、諸将は眉を顰めたのでした。

また古来、危険な最前線であえて飄(ひょう)げたパフォーマンスを演じることで自らの武勇を表現する慣習があり、敵もあえてその隙を衝いては殺さない、ある種の「お約束」があったのです。

勝てば何でもありじゃない!源義経の命令で射殺された黒革縅(くろかわおどし)の鎧武者


とかく武士とは命を懸けて飄げるものであり、敵もまた意気に感じ、あえてその間は手を出さない美学があった(イメージ)。

(……それをあえて射殺すなんて、義経とは何て野暮で卑怯な大将なのだろうか……)

鎌倉殿である源頼朝(よりとも)公の弟御なればこそ、真っ向から批判する者は少なかったでしょうが、心ある武士たちの多くはそのように思ったことでしょう。

敵の強さを賞賛し、それを倒すことによって自らの強さを証明する……そうした武士たちの価値観や美学を尊重せず、勝つためならば手段を選ばず、その手柄はすべて自分のもの……そりゃ義経が御家人たちから嫌われ、孤立していったのも無理からぬところです。

かくして勝利を重ね、高慢になる義経を「お前そんなんじゃダメだよ。大好きな兄上(頼朝公)に嫌われちまうよ」と諫めたのが梶原景時(かじわらの かげとき)。


義経のあることないこと頼朝公へ讒訴(ざんそ。嘘の訴え)し、ついには破滅へ追い込んだことから「日本三大悪人(残りは高師直、松永久秀)」にされてしまった景時ですが、彼としてみれば、みんな(何より頼朝公)のため、あえて「汚れ役」を引き受けたのでした。

勝てば何でもありじゃない!源義経の命令で射殺された黒革縅(くろかわおどし)の鎧武者


軍略の天才に驕る義経(左)と、それを諫めた景時(右)。Wikipediaより。

※幸い、近年では景時に対する再評価も進み、当時からあった「鎌倉本体の武士(武士の中の武士)」「一の郎党(頼朝公にとって第一の御家人)」という評価が定着しつつあるようです。

勝たねば生きていけない乱世とは言え、とにかく勝ちさえすれば手段は何でもよかった訳ではなく、殺し合いの中で生まれ、育まれた独自の倫理や価値観が、武士道として後世に伝わるのでした。

とかく「勝てば官軍、負ければ賊軍」などと言われる現代ですが、古き良き武士たちの精神も見直されて欲しいものです。

※参考文献:
大津雄一ら編『平家物語大事典』東京書籍、2010年11月
菱沼一憲『源義経の合戦と戦略 その伝説と実像』角川書店、2005年4月

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

編集部おすすめ