しかし、奈良時代の実態は、そうしたイメージと全く異なり、全時代を通じて、天皇・皇族・貴族の間で、血で血を洗う争乱が続いた時代でした。
なぜ、奈良時代に血なまぐさい争乱が続いたのか、後編でも前編同様、その理由を政争史に的を絞りながら、奈良時代の歴史をお話しましょう。
前編の記事はこちら
密告と殺戮!奈良時代、それは血で血を洗う争乱が続いた時代だった。【前編】
■わずか3日間で絶頂から奈落の底へ落ちた仲麻呂
奈良時代後半の政権をリードした孝謙天皇。(写真:wikipedia)
橘奈良麻呂のクーデターを抑え、絶頂期を迎えた藤原仲麻呂でしたが、760(天平宝字4)年に光明皇后が亡くなると、その権勢に陰りが生じてきます。光明皇后は、仲麻呂にとって政権の後ろ盾だけでなく、孝謙天皇との間を取り持つ存在であったのです。
仲麻呂と孝謙の関係は、淳仁が即位した頃からこじれ始めていました。それに拍車をかけたのが僧・道鏡の存在です。生涯独身であった孝謙にとって、法力により病を癒した道鏡は、単なる祈祷僧ではなく、恋人関係にまで発展していたとされます。
そして、ついに仲麻呂・淳仁と孝謙の間が分裂が生じました。762(天平宝字6)年、孝謙は、国家の大権を行使するのは自分であることを表明。さらに、764(天平宝字8)年には、大権の象徴である駅鈴と内印(天皇御璽)を武力で奪います。
こうした孝謙の動きは、仲麻呂が密かに兵を集めていることを理由しているものの、実態は、仲麻呂の機先を制したものであったのです。そして、仲麻呂の反乱を宣言すると、三関を固め、仲麻呂一派を一気に追い詰めていったのでした。
窮地に立った仲麻呂は、平城京を脱出、八男・辛加知(しかち)が国司として赴任していた越前を目指すも、官軍に阻まれてしまいます。そして、琵琶湖の西岸・三尾崎で捕えられ、妻子もろとも斬首に処されたのです。[恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱]

孝謙天皇の寵愛を受け、天皇位まで望まれた道鏡。(写真:奈良市)
■その後も絶えなかった政争と悲劇

悲劇の皇女井上内親王が務めた伊勢神宮斎王。(写真:wikipedia)
恵美押勝の乱後も、皇位にからむ争乱は絶えませんでした。孝謙が重祚して称徳天皇になると、称徳は寵愛する道鏡を天皇位に立てようと画策します。この動きは称徳の崩御でなくなり、道鏡も失脚します。
称徳の後を継いだ光仁天皇は、聖武天皇の娘である井上内親王(いがみないしんのう)を皇后にし、その間に生まれた他戸親王(おさべしんのう)を皇太子に立て、政局の安定を図りました。
しかし、これが、藤原氏同士(北家と式家)による権力争いに巻き込まれ、772(宝亀3)年、井上内親王と他戸親王は光仁天皇を呪詛したとして、皇后と皇太子を廃されてしまいます。
親子はその翌年、別の呪詛事件の嫌疑もかけられ、庶民に落された挙句、不自然な死を遂げてしまうのです。
奈良時代は、784(延暦3)年に終わります。桓武天皇が即位し、都は長岡京へ遷都され、新たな時代へ歩み出しました。しかし、桓武側近の藤原種継が暗殺されるなど、政局はまだまだ安定せず、ここでも多くの血が流され続けたのです。

奈良から長岡京・平安京に都を移した桓武天皇。(写真:wikipedia)
以上、奈良時代の政争について述べてきました。奈良というと悠久の歴史ロマン溢れる地というイメージがあります。しかし、その実態は、天皇・皇族・貴族による、血で血を洗う権力争いが続いた時代であることをお分かりいただけたでしょうか。
2回にわたりご愛読をいただき、ありがとうございました。
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