夏には池一面に蓮の花が咲き乱れ、江戸時代には蓮の葉にお米を包んで蒸した蓮飯が周辺の茶屋で蓮見客に提供されるなど、由緒ある江戸の名所だが明治時代のほんの少しの間だけ競馬場として活用されていた。
あの辺りを馬が走っていたなんて今では全く想像ができないが、一体どのように競馬場が成立したのだろうか。
■ギャンブルではなく貴族の社交場だった上野の競馬場
『東京名所之内 不忍競馬之図』歌川国利
この地で競馬が行われていたのは明治17年(1884)から明治25年(1892)までの8年間。主催は明治12年(1879)に設立された共同競馬会社で、元々は戸山(現在の東京都新宿区)に競馬場を構えていたが、少々交通の便が悪かったため不忍池へと場所を移すこととなったのが始まりである。

『東京上野不忍大競馬ノ図』楊州周延
競馬は発祥国のイギリスでは貴族の社交の場であったため、日本でもギャンブルではなく、「屋外の社交場」という形で開催された。
そのためか不忍池競馬が開催された当時の共同競馬会社の社長副社長は皇族・旧大名クラスが務め、幹事には伊藤博文、西郷従道、松方正義、岩崎弥之助のほか、会計長に三井八郎右衛門が就くなど錚々たる面々が名を連ねていた。
上野不忍池が競馬場として選ばれたのは交通の便の良さもあったが、西洋各国にならって貴族の社交場としての競馬場は公園内にあるのがふさわしいと考えられたからだと言われている。
■不忍池競馬場の建設、華やかな開催からその終焉

『上野不忍池 春季競馬之真図』歌川国晴
開場に向けて池畔の一部を埋め立てたコースの整形や、メインスタンドとサブスタンド、馬200頭を収容できる厩舎が建設する工事が明治17年に着手された。江戸時代の不忍池は今とはかなり異なった形をしていたようで、現在の池の形はこの時の工事によって出来上がったものである。
そして、同年11月に天皇臨席のもと記念すべき第1回の競走が開催された。馬見所2階中央には明治天皇が座り、その左右には小松宮や有栖川宮をはじめとした宮家や旧大名、華族、各省高官、各国公使が列席。一般人もコースの外柵際の桟敷席でレースを観戦することができた。
池には満艦飾で飾り立てた舟を浮かべ、陸軍楽隊が音楽を演奏。

『徳川家康公御入国三百年大祭忍ケ岡幌曳階子乗之図』鍋田玉英 パラシュートを付けた人形が空に描かれている。
しかし、馬券を販売できないことが痛手となり、徐々に経営が悪化。競馬は春場所・秋場所と定期開催され、明治天皇も何度か観覧していたが、経営難のため1892年(明治25年)の秋場所を最後に上野不忍池競馬は終了した。
今では馬どころかもっとたくさんの動物がいる上野の不忍池。日本が西洋列強に必死に追い付こうとしていた歴史の断片が、池の形から見えてくるようである。
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