時は幕末、尊皇攘夷に燃える渋沢栄一(しぶさわ えいいち)が、いよいよ志士として本格的に動き始め、ますます面白くなってきた大河ドラマ「青天を衝け」。

栄一を攘夷運動へいざない、横浜の外国人居留地焼き討ちを提案したのが彼の従兄である尾高惇忠(おだか じゅんちゅう。
演:田辺誠一)。

大河ドラマでは栄一たちに文武両道を教え、尊皇攘夷思想に導いて彼らの人生に大きな影響を与えた惇忠は、一体どのような人生を送ったのでしょうか。

そこで今回は、幕末・明治を駆け抜けた渋沢栄一の師匠・尾高惇忠の生涯について紹介したいと思います。

■渋沢栄一の従兄、また師匠として大きな影響を与える

大河ドラマ「青天を衝け」横濱焼き討ち計画を発案した渋沢栄一の...の画像はこちら >>


埼玉県深谷市にある尾高惇忠の生家。Wikipediaより(撮影:Suikotei氏)。

尾高惇忠は江戸時代末期の文政13年(1830年)7月27日、武蔵国榛沢郡下手計(しもてばか。現:埼玉県深谷市)村の名主・尾高勝五郎保孝(かつごろう やすたか)の子として誕生します。

通称は新五郎(しんごろう)、惇忠とは諱(いみな。忌み名)で普段は使わず、また元々は「あつただ」と読みました。

幼い頃から利発だった新五郎は17歳にして私塾「尾高塾」を開き、栄一をはじめ近所の子供たちを集めて学問を教えたと言いますから、若くして相当な学識を供えていたことが分かります。

栄一とは従兄弟の関係ですが、妹の千代(ちよ)を栄一に嫁がせたことで舅婿の関係でもあり、また弟の尾高平九郎(へいくろう。諱は昌忠)を栄一夫婦の養子としました。


新五郎は栄一の従兄であり、舅であると共に、栄一の養子である平九郎の兄ですから、栄一の甥とも言えなくもないわけで……家系図を書いたら、ちょっとややこしくなりそうですね。

■横浜焼き討ち計画を発案するが……

さて、新五郎が34歳となった文久3年(1863年)、世の中に尊皇攘夷・討幕の機運が高まると、栄一たちと横浜にある外国人居留地の焼き討ちを計画します。

大河ドラマ「青天を衝け」横濱焼き討ち計画を発案した渋沢栄一の師・尾高惇忠の生涯


横浜焼き討ち計画(イメージ)。

「上野国の高崎城(現:群馬県高崎市)を襲撃して武器を奪ってから横浜の外国人居留地を焼き討ちし、それから長州(現:山口県)の毛利家と連携して、欧米列強に対して弱腰な幕府を倒そう!」

……言っていることは勇ましいですが、ちょっと考えるといささか荒唐無稽に過ぎる気がしなくもありません。

まず、新五郎と栄一たちがいる榛沢郡(現:埼玉県深谷市)から高崎城(現:群馬県高崎市)まで、北西へおよそ30キロ(直線距離)。そこから南東方向へとって返し、横浜までおよそ130キロ(同)。

高崎城がどれだけ隙だらけだったのか(あるいは内通者でもいたのか)はともかく、仮に高崎城を乗っ取り、武器が奪えたところで、そこから徳川幕府のお膝元である江戸を通過(あるいは大きく迂回)して横浜へ向かうまで、何の障害もない(あるいはそれを乗り切れる)とは到底思えません。

「いくら何でも無謀すぎます!」

弟の尾高長七郎(ちょうしちろう)が猛反対したことにより、横浜焼き討ち計画は中止になるのですが、新五郎ともあろう者が計画の無謀さに気づかなかったとは思い難いですが、もしかしたら、

かくすれば かくなるものと 知りながら
やむにやまれぬ 大和魂(やまとだましい)
※吉田松陰(よしだ しょういん。長州志士、安政の大獄にて刑死)

【意訳】こうすればこうなる…そんな結果≒失敗は百も承知だが、それでも日本の行く末を思えば、行動せずにはいられないのだ!

……という精神に基づいてのことだったのかも知れませんね。

■戊辰戦争では彰義隊に参加するも……

さて、焼き討ち計画を断念しても尊皇攘夷の志やまず、京都へ飛び出していった栄一たちとは別行動をとり、地元を守りながら時機をうかがっていた新五郎ですが、慶応4年(1868年)ついに討幕の火蓋が切って落とされました。

大河ドラマ「青天を衝け」横濱焼き討ち計画を発案した渋沢栄一の師・尾高惇忠の生涯


江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜。Wikipediaより。


世に言う戊辰(ぼしん)戦争に際しては、京都から逃れて来た将軍・徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)を警護するために結成された彰義隊(しょうぎたい)に参加。

そこには、栄一と行動を共にしていた渋沢喜作(きさく。栄一の従兄)が頭取を務め、栄一の養子として江戸で暮らしていた平九郎の姿もあります。

「喜作お前、尊皇攘夷の志で京都へ行ったら、倒すべき幕府将軍の警護とはどういうことだ!?」

「事情が変わったのだ。もはや公武(朝廷と幕府)が力を合わせずして、日本の国難は乗り切れぬ。そのためにも、今は君側の奸(※)より将軍家をお護りせねばならぬ!」

「うーむ……腑に落ちぬが、左様な事情であれば……」

(※)君側の奸(くんそくのかん:主君の側近く仕え、道理を誤らせる奸臣。ここでは朝廷の権威を濫用し、幕府を滅ぼして権力の掌握を目論む薩長藩閥を指す)

やむなく彰義隊に列した新五郎でしたが、4月に徳川慶喜が江戸の無血開城を決断。謹慎するため江戸から水戸へと退去しました。

大河ドラマ「青天を衝け」横濱焼き討ち計画を発案した渋沢栄一の師・尾高惇忠の生涯


官軍への徹底抗戦を訴えた天野八郎(右人物)。月岡芳年「東叡山文殊樓焼討之図」より。

これで無益な戦いは避けられる……そう胸をなで下ろした一同でしたが、喜作に次いで彰義隊の副頭取であった幕臣・天野八郎(あまの はちろう)が徹底抗戦を主張。

「薩長の連中は幕府を滅ぼすつもりだ!今はよくても、ここで戦わねば遠からず追い詰められてしまうぞ!」

結果的にはその通りとなったのですが、喜作は無血開城の上意に逆らっての抗戦をよしとせず、彰義隊を離脱。
新五郎たちも袂を別ったのでした。

■飯能戦争、平九郎の死

「しかし、彰義隊や他の幕臣たちが官軍に抵抗すれば、上様に危険が及ぶやも知れぬ。いざとなったらお護りできるよう、やはり軍勢を揃えておくべきだ」

大河ドラマ「青天を衝け」横濱焼き討ち計画を発案した渋沢栄一の師・尾高惇忠の生涯


上野戦争の死闘。月岡芳年「東叡山文殊樓焼討之図」より。

そこで新五郎は喜作や平九郎らと共に振武隊(しんぶたい)を結成。上野戦争(5月15日)に敗れた彰義隊の残党も受け入れておよそ1,500名に膨れ上がった5月18日、武蔵国高麗郡飯能(現:埼玉県飯能市)の能仁寺に布陣します。

しかし、官軍がこれを見逃すはずもなく、5月23日に3,500名の軍勢で能仁寺を攻撃。後世に言う飯能戦争の始まりです。

「ぐわっ、撃たれた!」

「喜作、しっかりせぇ!傷は浅いぞ!」

「兄上、後方から敵襲!」

戦闘は半日ほどで終了、新五郎は銃撃で負傷した喜作を抱えて伊香保(現:群馬県渋川市)まで逃げ延びましたが、平九郎は逃げきることが叶わず、切腹して若い命(享年22歳)を散らしたのでした。

「養父上(栄一)……」

大河ドラマ「青天を衝け」横濱焼き討ち計画を発案した渋沢栄一の師・尾高惇忠の生涯


渋沢記念館蔵・渋沢平九郎の写真。

平九郎が遠く仰いだ空の向こう、栄一はそのころ、先進技術を日本に採り入れるべくフランス・パリ万国博覧会の視察をはじめ、ヨーロッパ諸国を歴訪していました。

大政奉還(たいせいほうかん。
幕府が政権を朝廷に返還)によって帰国を命じられ、明治元年(1868年。慶応4年9月8日に慶応から改元)11月3日、かつて自分が焼き払おうとしていた横浜港に帰国します。

「そうか、平九郎が……」

亡くした養子を悼む暇もなく、栄一にはヨーロッパ諸国で学んだことを活かし、新たな日本を創り上げていく使命が待っているのでした。

■エピローグ・明治日本の発展に尽力

新五郎と喜作はその後も北へ北へと転戦し、最後は箱館(現:北海道函館市)で旧幕府軍(蝦夷共和国、蝦夷政権)が全面降伏するまで抵抗を続けました。

「もはやこれまでか……」

日本の前途を絶望した二人でしたが、大蔵省の官僚となっていた栄一の伝手によって、今度は明治日本の発展に力を尽くすこととなります。

大河ドラマ「青天を衝け」横濱焼き討ち計画を発案した渋沢栄一の師・尾高惇忠の生涯


晩年の尾高惇忠。Wikipediaより。

その後、新五郎は富岡製糸場(とみおかせいしじょう。現:群馬県富岡市)の経営や養蚕・製藍の研究に励み、第一国立銀行の支配人(盛岡支店、仙台支店)などを歴任。明治34年(1901年)1月2日、満70歳の生涯に幕を下ろしたのでした。

尊皇攘夷の志に燃えて激動の幕末を駆け抜け、維新なった明治日本の発展に尽力した尾高惇忠。これから大河ドラマではどのような活躍を魅せるのか、好演が楽しみですね!

※参考文献:
山崎有信『彰義隊戦史』隆文館、1904年3月
加来耕三『真説 上野彰義隊』中央公論社中公文庫、1998年12月
菊地明『上野彰義隊と箱館戦争史』新人物往来社、2010年12月
歴史群像シリーズ特別編集『【決定版】図説 幕末 戊辰 西南戦争』学研プラス、2006年7月

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