本能寺の変(天正10・1582年)で横死した織田信長(おだ のぶなが)の覇業を継ぐべく、重臣の羽柴秀吉(はしば ひでよし)と柴田勝家(しばた かついえ)が争った賤ヶ岳の合戦(天正11・1583年)。

ここで先陣を切った秀吉子飼いの精鋭で、後世「賤ヶ岳の七本槍(しずがたけ しちほんやり)」と称えられた勇士の一人・平野長泰(ひらの ながやす。
権平)ですが、彼は同僚6名と異なり、生涯を通して大名(一万石以上の石高)になることはありませんでした。

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秀吉と、賤ケ岳の七本槍。Wikipediaより。

しかし、そんな長泰も決して出世の機会がなかった訳ではなく、あえて好条件を蹴ってしまったこともあるようです。

今回は武士道のバイブルとも言われる『葉隠(はがくれ。葉隠聞書)』より、平野長泰の痛快?なエピソードを紹介したいと思います。

■お前の家臣などまっぴら御免!平野長泰、庭へ放尿

平野長泰は賤ヶ岳の武功によって秀吉から河内国(現:大阪府南東部)に3千石の知行を与えられ、その後、徳川家康(とくがわ いえやす)と激突した小牧・長久手の合戦(天正12・1584年)でも武功を立てて大和国(現:奈良県)の領地を加増され、計5千石の領主となりました。

この時点で長泰は26歳(永禄2・1559年生まれ)ですから、秀吉から可愛がられていたこともあって順調な滑り出しと言えますが、残念ながら石高的にはここが人生のピーク。

それ以降はずっと5千石のまま、秀吉の死後はかつてライバルであった家康に従い、そのまま旗本として徳川秀忠(ひでただ)・徳川家光(いえみつ)と3代にわたって仕え、寛永5年(1628年)に70歳の生涯に幕を下ろしたのでした。

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細川忠興。Wikipediaより。

今回のエピソードは、長泰が家康の旗本となっていた時代のこと。
ある日、細川忠興(ほそかわ ただおき)に招かれると、こんなことを言われました。

「権平殿はこの日本(ひのもと)に隠れなき武勇の士でありながら、たった5千石とはもったいない。もし当家に仕官されるのであれば、領地の半分を差し上げよう」

【原文】
「権平殿の武篇は日本に隠れもなき事にて候。斯様の大勇士を唯今の通りの小身にて召し置かれ候儀、残念にて候。さこそ御不如意にこれあるべく候。我等家中になど御成り候はゞ、領知半分は遣し申すべき」

この領地の半分とは、文字通りに受け取ると細川家のおよそ40万石(当時)の内20万石ということになりますが、長泰一人にそれだけやってしまったら、家中に困窮と不和を招いてしまうでしょう。

となると、考えられるのは「現在、長泰が持っている石高の半分」つまり5千石×50%=2,500石ばかり加増してやろう、ということでしょうか。現実的ではありますが、一気に夢がしぼんでしまった印象です。

随分と見くびられたものだ……片や40万石の大大名、片や5千石の旗本ではあるものの、長泰は家康の直参であり、立場上は同僚である細川家の下風に立ついわれはありません。

そこで長泰は忠興の誘いには答えず、席を離れて縁側に仁王立ちすると、庭に小便を放ちながら言いました。

「やぁだよ。アンタの家臣になったら、ここで小便ができねぇだろうが!」

【原文】
「御手前の家中になりては、爰(ここ)から小便する事がならぬ。」

いや、どこの庭でも小便なんてしてはいけませんが、長泰としてみれば、自分を見くびった忠興に対して意趣返しをしてやりたかったのでしょう。


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平野権平長康(泰)。Wikipediaより。

「2,500石ぽっち、いや、たとい20万石をくれたって、お前の下風に立たされる筋合いはねぇんだよ!」

出世に興味もなかないが、武士は名をこそ惜しむもの……槍一本で敵中に突っ込み、命を賭けて勝ち取った5千石は、媚びへつらって頂戴した20万石より遥かにまさる……戦国乱世を闘い抜いた「賤ヶ岳七本槍」長泰の高笑いが聞こえてくるようですね。

■エピローグ

七三 平野権平殿は、賤ケ嶽先登七本鎗の内なり。後に家康公御旗本に召しなされ候。或時、細川殿へ振舞に参られ候。御亭主御申し候は、「権平殿の武篇は日本に隠れもなき事にて候。斯様の大勇士を唯今の通りの小身にて召し置かれ候儀、残念にて候。さこそ御不如意にこれあるべく候。我等家中になど御成り候はゞ、領知半分は遣し申すべき」由御申し候。権平殿兎角の返事なく、不図座を立ち縁に出で、正面に立ちはだかり、小便を致しながら申され候は、「御手前の家中になりては、爰から小便する事がならぬ。」と申され候由。

※『葉隠』巻十より。


……余談ながら、平野家は江戸時代を通じて代々続き、第10代・平野長裕(ながひろ)の時に明治維新を迎えました。

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田原本藩の初代にして最後の藩主・平野長裕。Wikipediaより。

長裕は新政府から1万石を与えられて田原本(たわらもと)藩を立藩。慶応4年(1868年)から明治4年(1871年)の廃藩置県までの3年間ですが、大名に列することができたそうです。

足かけ10代の悲願?が果たされて、長泰もさぞ喜んだことでしょう。

※参考文献:
戦国人名辞典編集委員会『戦国人名辞典』吉川弘文館、2005年12月
古川哲史ら校訂『葉隠 下』岩波文庫、2011年6月

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