旅や歴史についての執筆が多い筆者が、取材などの途中で見つけた隠れた歴史スポットを紹介します。

奈良市の旧市街・奈良町(ならまち)[※以下ならまち]は、太平洋戦争の戦火を免れたため、江戸時代そのままの町家と生活風景を残す貴重な町。


その一画に存在した「木辻遊郭」は、日本最古級とされる色街です。今回は、遊郭の歴史を紐解きながら木辻遊郭跡を紹介します。

まずは【前編】で、遊郭の起源、元興寺と木辻遊郭発祥のお話をします。この記事が、少しでも皆さんの歴史探訪の旅の参考になれば幸いです。

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 木辻遊郭跡周辺には住宅の他にも、古い町家を改装した店舗も目立つ。(写真:T.TAKANO)

■木辻遊郭が存在した「ならまち」とは

日本最古級の色街「木辻遊郭跡」をならまち(奈良市)で見つけた!旅で見つけた隠れ歴史スポット【前編】


 夜のならまち風景。観光客の姿もまばらで、静寂が漂う。(写真:T.TAKANO)

奈良市を訪れたらどこに行きますか?そう尋ねると、東大寺、春日大社、興福寺といった有名な寺社の名前があがってくるでしょう。

確かに東大寺や春日大社、興福寺などは、世界遺産にも登録され、とても見応えのある魅力満点の寺社です。でも、筆者はそうした寺社を差し置いても先ずは、ならまちに出向いてしまいます。

その理由はたくさんあります。しかし、理由を一つ上げるとしたら、ならまちの町並みの素晴らしさをあげます。


【「ならまち」の魅力】 ここには、江戸から明治に建てられた町家が建ち並び、人々の日々の生活や信仰が、その古い町並みに、しっとりと溶け込んでいるのを体感できるからです。

日本全国をめぐると、まだまだ古い町並みは多く残されています。奈良市の北には、古都の代表である京都もあります。

しかし、京都に残る貴重な町家の多くが、行政が監視しているのにもかかわらず、近年に入り次々と破壊されているという事実をみると落胆せざるをえません。

町家を中心として残された古い町並みという点にこだわるなら、ならまちのそれに今の京都は、遠く及ばなくなってしまったといっても決して過言ではないでしょう。

そんな、ならまちの一画に今回のテーマである木辻遊郭跡は存在します。

日本最古級の色街「木辻遊郭跡」をならまち(奈良市)で見つけた!旅で見つけた隠れ歴史スポット【前編】


 木辻遊郭跡に残る、遊郭を彷彿させる町家。(写真:T.TAKANO)

■なぜ、ならまちに最古級の遊郭ができたのか

日本最古級の色街「木辻遊郭跡」をならまち(奈良市)で見つけた!旅で見つけた隠れ歴史スポット【前編】


 平安時代の遊女の装束。(写真:日本服飾史)

日本に遊郭あるいは色町が最初にできたのはいつ頃なのでしょうか。奈良時代に成立されたとされる『万葉集』には、遊行女婦(うかれめ・あそびめ)という女性が登場します。

元来、遊行女婦は、鎮魂のため歌と舞いを演じる儀礼を行う女性を指した言葉といいます。古代において、神の神託を受ける女性は特別な存在と考えられ、そうした女性と触れ合うこともまた特別な力を得るとされていたのかもしれません。
遊行女婦は、平安時代になると、遊女(あそび)という名に変わって行きます。

遊行女婦も遊女も、高貴な男性(皇族・貴族など)が開く宴席で芸能に従事するとともに、知り合った男性と情を結ぶ女性もいたようです。

【大伴旅人が心惹かれた遊行女婦・児島】 大宰府の長官を務めていた大伴旅人が、大納言への栄転が決まり、平城京へ帰る時、水城の堰堤で「これで見納めか」と大宰府の方を顧みるシーンが『万葉集』にあります。

その時、過ぎし日に愛を交わした遊行女婦の児島と目が合います。児島は、おそらくは旅人を見送る人々の中に佇んでいたのでしょう。旅人と児島は、別れの悲しみに耐えられなくなり、以下のような問答歌を残しています。

おおならば かもかもせむを かしこみと 振りいたき袖を 忍びてあるかも (児島)

ますらをと 思へるわれや水くきの 水城のうえに なみだ拭はむ (大伴旅人)

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 大伴旅人。万葉集の編者とされる家持の父で奈良朝における大伴氏の最盛期を築いた。(写真:Wikipedia)

■元興寺とともに発展したならまちと木辻遊郭

日本最古級の色街「木辻遊郭跡」をならまち(奈良市)で見つけた!旅で見つけた隠れ歴史スポット【前編】


 元興寺極楽坊。屋根瓦の一部に飛鳥寺のものが使用されているという。(写真:T.TAKANO)

ならまちの起源は、元興寺なしでは語れません。元興寺は、蘇我馬子が明日香に造営した日本最古級の寺院である法興寺(飛鳥寺)が平城遷都で新築移転したお寺です。


今は元興寺極楽坊として、さほど広くない境内に極楽坊本堂と禅室(ともに国宝)が建ちますが、かつては南都七大寺の一つとして東大寺や興福寺と並ぶ広大な敷地を誇りました。ならまちは、その境内地の一部と考えられています。

そんな大寺院だけに、その造営事業には多くの人々が携わったとされます。労働のための職人や人足が集まれば、そこには自然と女たちが集まり、傾城街や遊女屋が形成されたと考えられ、それが木辻遊郭のはじまりとなったのです。

元興寺が明日香から移転したのは、718(養老2)年とされます。ですから、木辻遊郭は1300年もの歴史を有していたことになるのです。まさに日本最古級の遊郭といっても差し支えないでしょう。

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 夜のとばりが降りた木辻遊郭跡。このあたりは遊郭のメインストリートにあたる。(写真:T.TAKANO)

【前編】はここまで。【後編】は、木辻遊郭跡をめぐってみましょう。

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