本作には主人公の北条義時(ほうじょう よしとき)をはじめ、鎌倉殿を取り巻く多彩な御家人たちが活躍します。
中でもお気に入りの一人が、佐藤浩市さんの演じる上総介広常(かずさのすけ ひろつね)。偏屈で気高く、反骨精神に富んだいかにも坂東武者らしいそのキャラクターは、筆者のみならず多くのファンがいるようです。
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今回はそんな上総介広常の生涯をたどって行きたいと思います。
■坂東平氏の大豪族
歌川芳虎「大日本六十余将 上総介広常」
上総介広常は上総・下総の両国(現:千葉県の大部分)に勢力を有していた大豪族・上総介常澄(つねずみ)の嫡男として誕生。
本姓は平氏で、通称は平八郎(へいはちろう)、介八郎(すけはちろう)などと呼ばれました(八男なのか、あるいは女子込みで8番目の子なのかは諸説あり)。
ちなみに上総介の介とは国司のナンバー2に当たる地位で、上総国は昔から親王任国(しんのうにんごく。天皇陛下にごく近い皇子が守=トップと決まっている国)で、実際に親王殿下が赴任することもなかったため、事実上のトップに相当。
生年は不詳ですが、源頼朝(みなもとの よりとも)公が挙兵する20年以上前から頼朝公の父・源義朝(よしとも)に従っていることから、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」登場時点では相当な高齢(頼朝公の父~祖父世代)であることが判ります。
■相次ぐ苦難に、揺らぐ立場
さて、平治の乱(平治元年・1160年)で平清盛(たいらの きよもり)らに敗れた広常は、主君・義朝とは別行動で京都から脱出。

郎党に裏切られた義朝の最期。
義朝は逃走中に暗殺され、嫡男の頼朝公(当時14歳)は伊豆国(現:静岡県伊豆半島)へと配流。長い長い雌伏を余儀なくされました。
その一方、どうにか本拠地の上総まで逃げ延びた広常は、何食わぬ顔で(あるいは戦々恐々としながら)平清盛政権に従っていましたが、やがて父・常澄が亡くなると、にわかに状況が変わります。
上総介の後継者は正統な嫡男・広常ですが、これに対して庶兄(腹違いの兄)である印西常景(いんざい つねかげ)や印東常茂(いんとう つねしげ)らが抗議してきたのです。
「確かにそなたは嫡流なれど、不敬にも朝敵・下野(しもつけ。義朝の官名)に与した前科があり、不適格ではあるまいか」
では、常景と常茂のどっちが家督を継ぐべきかと言うとハッキリしないものの、とりあえず嫡男の広常さえ引きずり下ろせば、後は庶子(側室の子)同士でどうとでもなると考えたのかも知れません。
更に、平清盛の息がかかった伊藤忠清(いとう ただきよ)が上総介として赴任してきたことで、広常の立場はますます危ういものとなっていきます。
■頼朝公が挙兵!さて、広常は……
「まったく、四面楚歌とはまさにこの事……どうにか切り抜けねばならぬが……」
そんな中、治承4年(1180年)に頼朝公が挙兵。

20年の雌伏を経て、ついに決起した頼朝公。松本楓湖「源頼朝挙兵破れ潜行図」
「さて、どうしたものか……」
これに乗っからぬ手はない!と思うのは頼朝公が成功した結果を知っている現代人の感覚であって、当時の坂東武者たちからすれば「ネズミが富士山に背比べを挑もうとする(要約)」くらいの無謀な賭けでしかありません。
ちなみに上のセリフは、頼朝公への加勢を拒否した山内首藤経俊(やまのうち すどうつねとし)のものです。
「それでも、我が大軍をもってすれば……!」
平清盛政権を完全に打倒するのではなく、ある程度の抵抗≒実力を見せた上で和平を勝ち取り、坂東における地位を保証して貰う可能性については考えていたでしょう。
さぁ、これを踏まえて、頼朝公に与するか否か。挙兵に加勢するよう再三の使者をのらりくらりとかわしながら、広常は頼朝公を見極めようとします。
■ようやく合流、頼朝公の返答は?
「あるいは……」
頼朝公に将器なく、ただ「源氏の嫡流」というブランド(自称)だのみで兵を挙げた凡愚の大将であったなら、即刻攻め滅ぼしてその首級を清盛に差し出すつもりでもありました。
それならそれで「謀叛人を討ち果たした」大功をもって、ライバルたちにアドバンテージをとれます。
どっちに転んでもいいように、広常が集めに集めた軍勢はおよそ二万騎(※『吾妻鏡』による。史料によって1,000~20,000騎など諸説あり)。

「探せ!まだ遠くへは行っていない筈だ……」石橋山の合戦に敗れ、山中に潜伏する頼朝公。歌川国久「石橋山高綱後殿高名図」
対する頼朝公の軍勢は、石橋山の惨敗から海を渡って房総半島へと逃れ、やっとこかき集めた数百騎。
そこへ広常の二万騎が加わるとなれば、きっと下へは置かないどころか、頼朝公を我が意のままに出来るやも知れません。
「さぁて、そろそろ合流してやろうかのぅ……」
もはや頼朝公から催促の使者も来なくなったころ(きっと諦めたのでしょう)、ようやく重い腰を上げた広常は「大軍を連れて来てやったぞ。ほれ、泣いて感謝しろ」とばかりの態度で馳せ参じますが、頼朝公の返答は意外なものでした。
■頼朝公の将器に惚れ込む
「……今さら、どの面下げてやって来た」
なんと頼朝公は、自分の20倍以上もの援軍を拒絶してのけました。
「あの小童……!」
かつて石橋山で大庭景親(おおばの かげちか。三千騎)如きに惨敗させられた分際で、我らが二万騎を軽んずるとは……大いに腹を立てた広常ではありましたが、その一方で感心もしていました。
「君主たるもの、臣下の忠勤は当然として受け入れるべきであり、功績の大きさ(ここでは二万騎の加勢を率いてきたこと)にいちいち喜んでいるようでは、武家の棟梁として天下に号令するなど夢のまた夢……」

広常の目には、天下に号令する頼朝公の姿が見えたのか(イメージ)
ここで武力まかせに踏みつぶしてしまうには、あまりにも惜しい将器……すっかり頼朝公に惚れ込んだ広常は、平身低頭して遅参したことの詫びを入れ、その末席に加えてもらいます。
広常が頼朝公に味方したことで、坂東各地の武士団は頼朝公の勝利(少なくとも、滅ぼされることなく坂東に勢力基盤を築いて身分を保証してくれること)を確信し、こぞってその傘下に身を投じたのでした。
【下へ続く】
※参考文献:
上杉和彦ら『戦争の日本史6 源平の争乱』吉川弘文館、2007年3月
細川重男『頼朝の武士団 将軍・御家人たちと本拠地・鎌倉』洋泉社、2012年8月
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