江戸時代初期の都市には銭湯が増加し、多くの客で賑わった。当時の銭湯には髪をすいたり背中を流すなど、様々なサービスを提供する「湯女(ゆな)」が存在した。
湯女は人気を博し、需要と共に売春も行うようになる。

今回は、江戸初期に存在し人気を博した湯女の実態についてご紹介する。

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■湯女の誕生と歩み

古代。僧侶たちは身を清めるために寺院で入浴を行った。中世には入浴料を徴収する寺院が現れ、庶民にも浸透した。

湯女の誕生は鎌倉時代前後とされ、温泉地における入浴客の世話係が起源とされている。この時代は、蒸し風呂式の暗い部屋の中で蒸気を浴びる入浴法が主流であり、室町時代には京都を中心に銭湯が栄えた。

1591年には、江戸における最初の銭湯開業が確認されている。江戸の銭湯は賑わい、徐々に付随した各種サービスも提供されるようになる。業務の拡大に伴い、湯女の仕事内容にも変化が生じ始める。

江戸時代の銭湯で働く「湯女(ゆな)」の実態。湯屋の二階で性行...の画像はこちら >>


銭湯を描いた浮世絵(Wikipediaより)

■売春の増加

1596年から1615年の慶長年間。江戸の町には飛躍的に銭湯が増加した。
銭湯の営業は基本的に夕方までであり、その後は併設されている座敷で飲食を提供した。

湯女たちは昼間客の背中を流し、夕方以降には酒の相手や余興を披露し客を楽しませた。サービスは競合する銭湯や遊廓との需要争いなどによって次第に過激になり、売春を行う湯女も現れた。風呂屋の二階や専用の別室が使用されたという。

■湯女から風呂屋女として存続

江戸中期。湯女は人気を博し遊廓を脅かすまでになる。遊郭と違い非公認の私娼であった湯女は、幕府による粛清の対象となった。

しかし、庶民の根強い需要から「風呂屋女」として表向きは遊郭と差別化をはかりながら売春を継続。実質的に湯女は存続した。湯女の中には人気になる者もおり、幕府によって吉原遊郭へ引き渡され遊女となることもあった。

江戸時代の銭湯で働く「湯女(ゆな)」の実態。湯屋の二階で性行為、遊廓をも脅かす私娼に…


明治期の吉原遊女(Wikipediaより)

■江戸期以降の湯女

幕府は風紀の乱れや公娼の保護のため、湯女や風呂屋女の禁止令を定期的に発令し、取締りを強化するも効果は薄かった。

江戸では1657年の風呂屋一斉打ち壊し、1703年の元禄大地震を経て風呂屋の体制が一変。
それまでのように表向きな湯女や風呂屋女の存在は鳴りを潜めたが、幕府の眼を盗む形での売春は継続し、健全な銭湯として営業する反面、売春を行う湯女が常駐した。

一方で、公娼である遊女が働く遊郭は幕府公認で継続し、1656年に現在の台東区浅草寺裏に本拠地を移転。1957年の売春禁止法の施行によって姿を消すも、同地には風俗店が今も存在する。

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