澤村田之助 役者絵 国立国会図書館蔵
幕末から明治初期にかけて、歌舞伎界を牽引した三代目澤村田之助は、天才子役としてすでにその実力を認められ、安政5年(1858)に三代目澤村田之助を襲名。美貌と実力を兼ね備えた役者として、主に河竹黙阿弥の作品に数多く出演し、人気を博していました。
しかし、文久2年(1862)の「紅皿地皿」の舞台中に、宙吊りの状態から落下したことが原因で、脱疽(だっそ/細胞が死滅する病気)を患ってしまいます。
澤村田之助の細胞の一部はすでに機能しなくなっており、このままでは足を切断しなければならない状態でしたが、この人気役者の窮地を救ったのは、当時、横浜で医療活動を行っていた「ジェームス・カーティス・ヘボン」でした。

ジェームス・カーティス・ヘボン Wikipediaより
幕末になると、日本に多くの宣教師がやってきましたが、その中の一人であったヘボンも安政6年に横浜へやってくると、東海道の宿場町・神奈川宿に住み、宿内の宗興寺に診療所を開きました。
宣教師であったヘボンの診療は大変評判がよく、その記録によると、一日平均100人の患者を診察したとのことです。ちなみに、ヘボンが来日した安政年間は、長崎からコレラが入ってきて、江戸でも大流行…死者数は3万人にのぼったと言われます。
コレラに打ち勝つだけの医療技術のない当時の日本で、最新の医療を施していたヘボンの診療所には長蛇の列ができたことでしょう。また、文久2年の生麦事件の際には、薩摩藩士によって負傷したマーシャルとクラークを治療する等の実績も残している名医です。
さて、慶應3年(1867)、ヘボンは眼科が専門の医師でしたが、内科の治療や外科手術にも定評があり、澤村田之助の右下腿切断手術に臨みました。その結果、右足膝付近まで足を失いましたが、何と翌年には義足を付けて舞台に復帰しています。
このスピード復帰によって、ヘボンの医療技術は当時の日本の医師たちに大きく衝撃を与えたことでしょう。
右足を失った澤村田之助は、当初、江戸の人形師・松本喜三郎が作った義足を付けていましたが、上手く機能せず、200両もの大金を払って、アメリカ・セルフォ社製の義足を購入しました。尚、最初の義足を作った喜三郎は、使えなかったことを恥じて料金は受け取らなかったそうです。

三代目澤村田之助 Wikipediaより
役者生命の危機からカムバックした澤村田之助は、自分の手術に携わってくれたヘボンたちのための御礼興行を行いました。そして、足のない状態にもかかわらず名演技を披露したその芝居は「義足芝居」として、拍手喝采であったと言います。
このように日本人のために医療に従事したヘボンは「ヘボンさんでも、草津の湯でも、恋の病はなをりゃせぬ」と歌われるなど、大変愛されました。
その後、澤村田之助の脱疽は悪化の一途をたどり、とうとう左足を切断するほどまでになっていました。ヘボンは帰国中であったため、弟子の南部精一が手術を行いますが、結果的に右の手首から先、さらには左手の小指以外の指を失うことになりました。
そのような状況の中でも、澤村田之助は好演を続け名女形として大成功を収めますが、病気の進行を防ぐことができず、明治5年(1872)の正月、28歳の若さで役者を引退…最後の舞台となった京都南座「国姓爺姿写真鏡(こくせんやすがたのうつしえ)」では、千秋楽を三日前で降板してしまいました。ヘボンの手術を受けて舞台復帰を果たした澤村田之助でも、心身ともにギリギリの状態で舞台に上がっていたのでしょう。
引退後は、裏方に回り澤村座を開きました。一時は舞台復帰も模索していましたが、澤村座の興行成績は芳しくなく、明治11年、二度と舞台に立つことなく33歳でその生涯を閉じました。
一方のヘボンは、幕府の干渉によって施療所を閉鎖させられてしまいますが、明治に入っても日本の医療に大きく貢献しました。
幕末明治の動乱の中、ヘボンに手術を施された歌舞伎界のスターが日本で初めて義足をつけたことは、その後の日本医学に大きな影響を与えたことは言うまでもないでしょう。
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