時は風雲急を告げる慶応4年(1868年)1月11日。後世に言う戊辰戦争の真っただ中、岡山藩士の滝善三郎(たき ぜんざぶろう)らは任務の途中にフランス水兵と衝突。
「無礼者!」
進路を妨害されたことを憤った善三郎が、水兵の一人を槍で突くと反撃を受けて銃撃戦に発展してしまいます(神戸事件)。
その場では死者もなく、数名の負傷者だけですんだのが不幸中の幸いながら、列強各国を巻き込んだ騒動が、これで収まるはずはありませんでした……。
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武士の誠を見届けよ!幕末「神戸事件」の責任を一人で背負い切腹した滝善三郎のエピソード【上】
■とくと見届けよ!善三郎のほとばしり出る赤誠
「Protégez immédiatement les résidents japonais!(ただちに在留邦人を保護せよ)」
欧米列強は居留地防衛のために神戸港を武力占拠し、停留している日本船舶を片っ端から拿捕します。
その要求は事件の再発防止と日本側の現場責任者たる善三郎の処刑。数名負傷の被害に対してあまりに重すぎる、そもそも事の発端はそちらの無礼行為(供割)ではないか……日本側の必死な抗弁も虚しく、ついに善三郎の切腹が決定しました。
「……善三郎」
「是非もなきこと。この腹一つで各国と和親が復するならばお安い御用。奉公人として、これ以上の本懐はございませぬ……!」
アヘン戦争でイギリスに惨敗を喫した清国。Wikipediaより
このままでは、神戸は(先のアヘン戦争でイギリスに奪われた香港のような)植民地にされてしまう……日本の未来を切り拓くため、今は欧米列強の傲慢を耐え忍ばねばなりません。
「あの毛唐(※)どもに、目にモノ見せてくれましょう……」
(※)けとう。欧米人、主に白人に対する差別用語(現代では不適切ながら、当時の欧米列強に対する反感を描写するため、あえて使っています)。
かくして迎えた慶応4年(1868年)2月9日、いよいよ善三郎は切腹の晴れ舞台に立ったのでした。
きのふみし 夢は今更引かへて 神戸が宇良に 名をやあげなむ辞世を詠み上げた善三郎は、古式ゆかしく短刀を己が腹に突き立てます。
【意訳】昨日見た夢を今に引き換えて神戸の浦に名を上げる機会を得た≒かねて夢見ていた功名の機会を、ここ神戸にて実現したぞ!
(とくと見届けよ!ほとばしり出る我が赤誠……これが日本の、武士の最期ぞ!)
ザジュザジュと切り裂いた腹の中からグロングロンと腸(はらわた)を取り出し、弟子の介錯によって相果てました。享年32歳。

「御免!」善三郎のほとばしる赤誠
「「「Oh……!」」」
善三郎のおどろおどろしく壮絶な最期は、その検屍に立ち会ったイギリス外交官のアルジャーノン・ミットフォードによって生々しく伝えられ、世界的な衝撃を与えたということです。
「日ごろ温厚で親切だけど、実は内心で極限まで耐え続けており、いざキレると何をしでかすか分からない底知れなさがある」
日本人のそんな評価は、この頃から始まったのかも知れません。
■エピローグ
善三郎の切腹によって神戸の平和は取り戻され、新政府軍は旧幕府軍の討伐に全力を注ぐことが出来るようになりました。
その功績により、善三郎の嫡男・滝成太郎(しげたろう)は岡山藩の直参(じきさん。直接仕える家臣)に取り立てられて500石を賜り、長女のいわには婿を取らせて滝家を継がせ、こちらも100石を賜りました。

善三郎の最期(イメージ)
また、善三郎が切腹に用いた脇差は成太郎に、介錯に用いられた刀はいわに渡され、それぞれ子孫に継承されています。
腹一つ切って、世界に日本の男を上げた善三郎。間もなく起こった堺事件(慶応4・1868年2月15日)ともども、力に驕り、アジア諸国や有色人種を侮っていた欧米列強を震撼せしめた幕末の痛快事として、末永く伝えていきたいですね。
【完】
※参考文献:
アーネスト・サトウ『一外交官の見た明治維新 下』岩波文庫、2021年4月
A.B.ミットフォード『英国外交官の見た幕末維新–リーズデイル卿回想録』講談社学術文庫、1998年10月
NHK編『NHK歴史への招待 第20巻 黒船襲来』日本放送出版協会、1989年5月
矢野恒男『維新外交秘録 神戸事件』フォーラム・A、2007年12月
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