柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺

……と言えば、誰の作かは知らなくても誰もが知る有名な俳句ですね。

この俳句を詠んだ歌人・正岡子規と言えば、脊椎カリエスという病気にかかり寝たきりの生活を送りながらも、精力的に活動を続けた歌人というイメージがあると思いますが、実は大の野球好きのスポーツ青年だったのです。


■正岡子規とは

ベースボールを「野球」と名付けたのはなんと歌人・正岡子規だっ...の画像はこちら >>


正岡子規

正岡子規は本名を正岡常規(まさおかつねのり)といい、1867年10月14日に愛媛県松山市に松山藩士正岡常尚の長男として生まれました。

母は、藩の儒者大原観山の長女であり、幼くして父を亡くした子規は大原家と叔父の後見を受けて育ちました。

幼い頃から漢書の素読を習い、少年時代から漢詩や戯作や書画などを好み、友人と回覧雑誌を作ったり試作会を開いたりしていました。また自由民権運動の影響を受け政談にも熱中したといいます。

■正岡子規とベースボールの出会い

明治17年、正岡子規が東京大学予備門(現:東京大学教養学部)に入学した頃、初めて“ベースボール”を知ることになります。その頃まだ日本において最初の“ベースボール”の黎明期であり、まだ“野球”とという言葉もありませんでした。

正岡子規は東京大学予備門のベースボール部で捕手としてプレイしていました。

ベースボールを「野球」と名付けたのはなんと歌人・正岡子規だった!?…という誤解


正岡子規のベースボールユニフォーム姿

ちなみに正岡子規がプレイしていた時代は、プロ野球もなければ私立大学でも慶應くらいしか強豪チームがなく、誰もが認める日本最強チームが正岡子規の所属する東京大学予備門だったようようです。

正岡子規は友人も不思議に思うほど、他のスポーツには興味を示さないのに、野球に心底熱中しました。それは結核で血を吐いて倒れる直前まで野球を辞めなかったということからも野球狂であったことがわかります。

明治25年(1982)帝国大学を中退し、正岡子規は新聞「日本」の記者となります。

そして明治29年(1896)年、アメリカから伝わったベースボールの歴史や競技の仕方などを連載で解説していました。
正岡子規はそのときバッターを“打者”、ランナーを“走者”、フォアボールを“四球”と日本語に訳し、それが今も日本の野球で使用されているのです。

■野球と名付けた人物

ベースボールを「野球」と名付けたのはなんと歌人・正岡子規だった!?…という誤解


中馬庚

では“ベースボール”を「野球」と名付けたのは誰なのかという話になりますが、それは鹿児島県鹿児島市出身の中馬庚(ちゅうま かなえ)という教育者であり、元野球選手です。

第一高等中学校のベースボール部員という、正岡子規の(東京大学予備門は第一高等中学校の前身)後輩になります。

中馬は、第一高等中学校を卒業する際に出版する「ベースボール部史」執筆を依頼されました。“ベースボール”をどう訳すか色々案は出たがなかなか決まらなかったようです。

執筆の完成間近「ball in the filed」という言葉を元に“ベースボール”は“野原”でするので「野球」と解釈し、そのように説明しました。

これが「一高野球部史」として発行されるのです。

中馬は明治30年(1897年)、一般向けの野球専門書「野球」を出版します。それがやがて“ベースボール”イコール「野球」という言葉として定着します。

つまり野球の名付け親は“中馬庚”なのです。

その功績により昭和45年(1970年)、特別表彰という形で野球殿堂入りしました。

■何故、正岡子規が“野球”の名付け親と誤解された?

実は正岡子規が“野球”と名付けたという説は根強くあります。
それは何故でしょうか。

正岡子規の幼名は“升(のぼる)”です。

正岡子規は野球に熱中し、自分の雅号を「野球」「能球」としていた時期があるのです。 球をボールと読ませて「ノボール」「ノゥボール」と幼名の升(のぼる)と掛けたのです。読み方も「やきゅう」ではありません。

しかしこのことが、“正岡子規が「野球」の名付け親”だと勘違いの元になってしまったのかもしれません。

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