明治に誕生した食文化の一例を見ていきたいと思います。
■牛鍋
『安愚楽鍋』より「牛鍋を食う書生」
無限列車でも煉獄さんが食べていた牛鍋弁当。
現在のすき焼きに近い食べ物だそうですが、関東では「牛鍋」関西では「すき焼き」と呼んでいたそうです。
牛鍋は食肉文化が一般的になった明治時代に広まり、「文明開化の味」ともてはやされました。
幕末には味噌仕立ての鍋でしたが、明治になってから現在のような醤油味が主流になりました。
明治の初めの牛鍋は牛肉とネギを使った鍋料理全般を指し、味付けや他の具材などはまちまちだったそうです。
明治4年、仮名垣魯文は著書『安愚楽鍋』で「士農工商老若男女賢愚貧福おしなべて、牛鍋食わねば開化不進奴(ひらけぬやつ)」と表現していたくらいなので、面白いですね。

■洋食

洋食は、もともとは幕末から明治にかけて、日本に住む外国人のための西洋料理店が発祥でした。そうした店で働いていた日本の料理人たちは、のちに自分の店を開き、洋食を広めていきます。
江戸時代までの日本では肉食が一般的ではなく、肉を主体とする西洋料理には大きな抵抗がありました。
しかし、明治政府が国民の体格向上のため肉食を奨励したり、明治天皇の食肉や毎日牛乳を飲むといった新聞報道などもあり、庶民のあいだでも牛鍋など徐々に肉食が始まり、洋食への抵抗も薄れていきます。
しかし明治時代の日本で西洋料理の食材を完全に揃えることは難しく、代用品が使われることもありました。
また、日本人向けにアレンジが加えられることもあり、そうして生まれた日本的な洋食の代表が、ポークカツレツ、カレーライス、コロッケ、カキフライ、エビフライ、オムライスなどです。
■牛乳

江戸時代以前も、日本国内で牛乳が飲まれることはあったものの、一般的ではありませんでした。
明治4年、天皇陛下が毎日牛乳を飲んでいると新聞で報道され、牛乳を飲む習慣は一般に広まっていきました。
最初は柄杓で秤り売りされていましたが、その後、ブリキ缶容器隣、明治30年代にはガラス瓶で販売されるようになりました。
■洋菓子

江戸時代より諸大名の菓子匠を仰せつかってきた凮月堂総本店は、明治時代になると洋菓子の開発を始めます。
明治10年の第1回内国勧業博覧会では、菓子部門において、大住喜右衛門の南伝馬町風月堂の「菓糕」と米津松造の若松町風月堂の「乾蒸餅(ビスケット)」が褒賞を受賞しました。
その後、西洋菓子に力を入れ、1882年(明治15年)ごろには大々的に西洋菓子を売り出し、1886年(明治19年)にはシウアラケレム(シュークリーム)やアイスクリームも製造しました。
■あんぱん

明治時代に誕生した日本発の食べ物に、あんぱんがあります。
あんぱんを考案したのは木村屋で、創業は明治2年。
5年後の明治7年、日本独自のあんぱんが誕生します。
木村屋のあんパンは、一般的なホップを使ったパン酵母の代わりに、日本酒酵母を含む酒種を使用しました。これは酒饅頭の製法に倣ったもので、従来の和菓子の製法に近く、日本人にも馴染みやすい人気商品となりました。
翌年には明治天皇に献上し、宮内庁御用達となったことで全国的な知名度も上がっていきました。
■アイスクリーム

明治2年、横浜馬車道で使節団の1人・町田房蔵が製造販売を始めたのが日本のアイスクリームの発祥です。
当時の名称は「あいすくりん」で、原料も牛乳、卵、砂糖とかなりシンプルなものでした。
しかし、発売当初は現在の価格で約8000円とかなり高級品で、食べられるのは主に外国人や上流階級の人たちだけで、一般庶民にはなかなかハードルの高いものでした。
明治19年に外国人を招待した鹿鳴館でのレセプションでも、デザートにアイスクリームが出されたと記録が残っています。
明治30年代には東京・銀座の資生堂でもアイスクリームとアイスクリームソーダの販売を始め、人気メニューとなりました。
明治後半には一般家庭にも浸透し始め、明治40年代には家庭用のアイスクリームフリーザーを使用しているところもあったそうです。
いかがでしたか?
現在ではお馴染みのこうした食文化も、明治の文明開化と一緒に花ひらいたと考えると感慨深いですね。
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan