■「不謹慎」発言も本気の本気

1923(大正12)年9月1日、関東大震災が発生しました。死者・行方不明者あわせて10万人が犠牲になった巨大地震です。


先般の東日本大震災では、公人私人を問わず「不謹慎」な発言な発言をした人がネット上などで叩かれる光景をよく目の当たりにしましたね。

ところがこの関東大震災では、「不謹慎」な発言を堂々と復興計画書の中に記して、そして壊滅状態にあった帝都・東京を本当に蘇らせてしまった人物がいたのです。

その人物の名は、後藤新平(ごとうしんぺい)[1857~1929]。

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後藤新平

彼は震災の翌日に作った『帝都復興ノ議』という文書の中で、「震災を理想的帝都建設の為真に絶好の機会」だとする文言を書き込んでいました。

現代だったら、これは「炎上」すること間違いなしです。

しかし後藤は、冗談や軽口でそう書いたのではありません。本気の本気だったのです。当時の政府で東京復興を任された後藤は、当時の国家予算の二倍の額である「30億円」の予算を提案し、土地を買収して区画整理を行う計画をぶち上げました。

彼はなぜ、こんな大胆な計画を立てられたのでしょうか。

実は、後藤は以前から「理想的帝都建設」の準備を進めていたのです。

この記事では、後藤がそのような構想をするに至った経緯と、その結果について辿ってみたいと思います。

■医師として、そして統治者として

後藤の大胆な「理想的帝都建設」構想の源流を知るためには、まず彼の経歴を見る必要があります。


もともと彼は医者でした。1857年、現在の岩手県奥州市の水沢生まれ。水沢といえば戊辰戦争で敗れた藩で、後藤の家は「朝敵」のレッテルを貼られていました。しかしそんな境遇をはね返すかのように後藤は猛勉強して医者になります。

そして彼は内務省で衛生局長にまで上り詰めました。それから、当時の陸軍次官だった児玉源太郎との出会いがきっかけとなって、台湾の民政局長や南満州鉄道の初代総裁となり、「統治者」としての才覚を発揮していくことになります。

炎上覚悟の不謹慎発言も本気!関東大震災後の東京を蘇らせた男、後藤新平が構想した「理想的帝都建設」


児玉源太郎

彼の都市改革の手法は、病人に治療を施すような手付きで社会体制を改善するというものでした。特に当時の台湾は財政破綻、抗日ゲリラの活動、アヘンの蔓延などの問題を抱えていましたが、これを「治療」し、産業の振興や鉄道の育成を果たしています。また、現在の台北の街の基礎を造ったのも彼です。

こうした経歴を経て、1920年に彼は東京市長に就任します。当時の東京は都市化が急速に進んでおり、近代産業や交通の発達、人口の急増に整備のスピードが追い付いていないという課題を抱えていました。

そこで後藤は、就任の翌年には大改造計画『東京市政要綱』を発表。
予算の問題から現実化には至りませんでしたが、その後も道路を舗装したり、市政調査会を設けて海外の学者からアドバイスをもらったりするなど東京の改造のために精力的に活動します。

■関東大震災…そして“あの人”も全面協力

そこで関東大震災が発生しました。

この時政界ではちょうど新しい内閣づくりが進められており、声をかけられていた後藤は東京復興のための入閣を決意。震災翌日には内務大臣と「帝都復興院総裁」を兼務することになりました。そして就任した日の夜にさっそく復興の方針を構想し、『帝都復興ノ議』として提出します。

炎上覚悟の不謹慎発言も本気!関東大震災後の東京を蘇らせた男、後藤新平が構想した「理想的帝都建設」


関東大震災被災直後の浅草(Wikipediaより)

その中で、冒頭でご紹介した「震災を理想的帝都建設の為真に絶好の機会」だとする文言が出てきたのです。

しかしやりたい放題というわけにはいきません。反対勢力の猛反発に会い、予算も大幅カットを余儀なくされました。それでも後藤は当時の東京市長とともに復興のために邁進します。

実はあの渋沢栄一も、震災直後から全面的に後藤をバックアップしています。後藤は9月4日に渋沢に協力を求め、被災者の救護や経済対策について相談しています。渋沢は後藤の依頼をその場で承諾し、程なく罹災者収容や炊き出し、臨時病院の確保などに向けて動き出します。
渋沢は当時83歳。日本橋で被災したものの、彼自身も罹災者の食糧確保や都市の保安のために直後から動いていました。

炎上覚悟の不謹慎発言も本気!関東大震災後の東京を蘇らせた男、後藤新平が構想した「理想的帝都建設」


渋沢栄一の銅像

こうして復興は進んでいきました。東京の大通りと言われて私たちがすぐに思い浮かべる幹線道路や墨田川の六橋、隅田・錦糸・浜町の三台公園が造られます。また神田駿河台、神田淡路町・須田町、浅草雷門、築地なども、震災後の区画整理事業で生まれ変わりました。交通網や下水道も整備されています。東京は以前よりも災害に強く、人間の命が守られる都市へと変貌しました。

きっと後藤の目には、震災直後の東京は瀕死の怪我人のように映ったことでしょう。しかし彼はやりました。一度は、壊滅した首都を捨てて「遷都」する案まで出た東京を、見捨てることなく救ったのです。

後藤の計画は壮大に過ぎ「大風呂敷」と酷評されましたが、しかし現在の東京の土台である部分が整えられたのは、ほとんど彼の実績です。医者・統治者・東京市長などの彼の経歴を見ると、全てはこの関東大震災の復興のために用意された運命だったのではないかと思わずにはいられません。


歴史的に、都市や人の生活は災害がきっかけで生まれ変わるとよく言われます。しかし、破壊されたものを現実的に蘇らせるのは、やはりナマの人間の行動力です。東日本大震災と原発事故から10年半が経った今、もしも現代に彼のような政治家がいたらその後の復興はどうなっていただろう? ついそんなことを想像してしまいます。

参考資料

  • 越澤明『後藤新平 大震災と帝都復興』(筑摩書房)
  • 北岡伸一『後藤新平』(中公新書)
  • 事業構想「関東大震災から東京を復興させた「国家の医師」後藤新平」
  • 知っていましたか?近代日本のこんな歴史「帝都再建 ~関東大震災からの復興~」
  • 公益財団法人渋沢栄一記念財団「”民”の力を結集して震災復興を – 渋沢栄一に学ぶ / 木村昌人」

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