丹前風呂は江戸時代に存在した湯女風呂で、実は単なるお風呂ではなく、いろいろな流行を生み出した場所でもありました。
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■丹前風呂(たんぜんぶろ)とは?
丹前風呂(たんぜんぶろ)は、江戸時代初期に江戸神田堀丹後守という小さな大名屋敷の前にあった、湯女(ゆな)風呂屋のことです。
湯女図
お店に湯女を多数おき、男性の背中を流すだけではなく、そこで春を売るようにもなりました。
女性たちは容姿が美しく、丹前風呂は江戸の中心部にあったことから、遠くの吉原よりも気軽に客が訪れ、人気の場所となりました。
丹前風呂だけではなく、他の湯女風呂も大きな発展を遂げたことから、幕府は1637年(寛永14年)に1軒ごとの湯女の数の制限などを設けましたが、徹底されなかったといいます。
■美貌の湯女・勝山
なかでも有名な湯女が、勝山(かつやま)と呼ばれる女性です。
『丹前風呂勝山』歌川国貞 画
きれいな人が多かった湯女のなかでも取り分け美しかった勝山は、客からたいへんもてはやされたと言います。
■丹前風呂(たんぜんぶろ)から生まれた数々の流行とは?
丹前風呂は単なる風呂屋ということにとどまらず、多くの文化や流行を生み出す場所でもありました。
例えば、風呂に通う遊客のなかでも特に侠客、遊冶郎と呼ばれた人々の粋なスタイルは丹前風や丹前姿などと呼ばれました。
また、厚く綿を入れた上着である褞袍(ドテラ)のことを「丹前」と呼ぶのも、勝山や彼女に影響を受けたひいき客らが着ていたことが由来となっています。
■丹前風呂(たんぜんぶろ)の終焉
大きな発展を見せた丹前風呂ですが、明暦の大火のあとに徹底した取り締まりを受けました。
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幕府は200軒にもわたる風呂屋の経営を禁止し、業者たちは廃業に追い込まれました。そこの湯女たちは、その後吉原に行くことになりました。
いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも歴史に興味を持つきっかけになれば嬉しいです。
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