むしろ地方人の中にも尊敬すべき人がいる一方、都に住んでいる中にも下卑た人物は少なからずいます。
奮戦する安倍宗任。菊池容斎『前賢故実』より
今回は平安時代、前九年の役に敗れて捕虜となり、都へ連行されて来た安倍宗任(あべの むねとう)のエピソードを紹介。奥州人の意地と都びとの傲慢を、思い知らせてやったのでした。
■「この花の名を知っているか?」都びとの侮辱に、宗任は……
安倍宗任は長元5年(1032年)、奥州にその名も高き安倍頼時(よりとき)の子として誕生します。
永承6年(1051年)に父と兄・安倍貞任(さだとう)が兵を起こすとこれに従い、討伐にきた源頼義(みなもとの よりよし)・源義家(よしいえ。頼朝の高祖父)らと戦いました。
しかし武運つたなく天喜5年(1057年)に父が敗死、その意志を継いで抗戦を継続した兄も康平5年(1062年)に落命。宗任は生き残った一族をまとめて降伏します。
虜囚の辱しめを受けた宗任らは京都へ連行され、都ではまるで捕らわれた珍獣を一目見ようとばかり野次馬が押しかけました。

梅の花枝を示す都人(イメージ)
宗任らが護送される沿道は、押すな押すなの大盛況……そんな中、意地悪な者が梅の花枝を持ってきます。
「奥州の蝦夷(ゑみし。東国の野蛮人)は花の名など知らぬであろう……おい、これの名前を知っているか?」
宗任の鼻先に梅の花枝をつきつけると、人々はこぞって嘲笑を飛ばしました。
わが国の 梅の花とは 見つれども 大宮人(おほみやびと)は いかゞいふらむただ「梅」と答えれば足りようところを、当意即妙の歌を詠んで返した宗任に、都びとらは驚きました。
※『平家物語』剣の巻より
【意訳】私の故郷では「梅」と呼んでいる花のように見えますが……やんごとなきお方々は、何か特別な呼び方でもしているのでしょうかね?

イメージ
奥州でも都でも、日本どこでも梅の花は梅の花……同じ日本(ひのもと)の臣民でありながら、ただ都に住んでいるというだけで、思い上がりも甚だしい。
そんな宗任の怒りと奥州人の矜持(そして皮肉)が込められた一首に、安倍一族は一矢報いた思いがしたことでしょう。
■終わりに
お裁きの結果、宗任らは死一等を減じて伊予国(現:愛媛県)へ流罪となり、治暦3年(1067年)に筑前大島(現:福岡県宗像市)へ移されました。そして嘉承3年(1108年)2月4日、現地で77歳の生涯に幕を下ろします。
余談と言っては何ですが、歳月は流れて戦国時代。奥州の覇者である伊達政宗(だて まさむね)が上洛した際、やはり意地悪な都びとが桜の花枝を突き出しました。
「この花の名を、伊達殿はご存じにございましょうか?」
それを見た政宗は、「やれやれ」とばかり一句詠んでやります。

文武を兼ね備えた奥州の雄・伊達政宗(画像:Wikipedia)
都人 梅に懲りずに 桜かな現代ではまさか住む場所によって人の貴賤を決めつけるような方もいないでしょうが、日本全国ひいては世界中どこに住んでいても、日本人同士お互いに尊重したいですね。
【意訳】お前たち都びとは、かつて安倍宗任に梅の花枝を突きつけて恥をかいただろう。今度は桜か、まったく懲りないヤツらめ……。
※参考文献:
- 藤原彰 監修『コンサイス日本人名事典 第5版』三省堂、2008年12月
- 伊達宗弘『武将歌人 伊達政宗』ぎょうせい、2002年1月
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan