■「無血開城」までの経緯

幕末~明治期の混乱の中で実現した「江戸城開城」といえば、勝海舟と西郷隆盛の話し合いで、一滴の血も流さず本拠地を明け渡した「無血」「平和的」解決というイメージですね。

この江戸城「無血」開城は、江戸時代末期の1868(慶応4)年3月から4月にかけて、明治新政府軍(東征大総督府)と旧幕府(徳川家)との間で行われました。
これを経て、江戸城は新政府へと引き渡されたのです。

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富士見櫓

徳川家の本拠である江戸城が、一切の抵抗なく「無血」で明け渡されたことで、一連の戊辰戦争の中でも新政府側が優勢となる大きなきっかけとなりました。

この明け渡しに至るまでの交渉過程は、小説・演劇・テレビドラマ・映画などの題材としても頻繁に採用されています。

しかし実際には、戦国時代のように江戸城が新政府軍によって「攻め入られる」事態を避けることができたというだけで、この明け渡しの前後には夥しい血が流れています。

実際の経緯を簡単に辿ります。まず1868(慶応4)年1月、鳥羽・伏見の戦いで、新政府軍が幕府軍を破ります。

そして政府軍は、そのまま江戸城の攻め落としを考えていました。3月6日に甲府に入った政府軍は、江戸城総攻撃の実行日を3月15日と決定します。

城を攻めるとなると、江戸の町が火の海になるのは必至です。

これをストップさせたのが、総攻撃直前の3月13・14日に二度に渡って行われた、新政府軍代表の西郷隆盛と、幕府代表である勝海舟の会談交渉です。

■その後も多くの血が流れた

実は、勝海舟は直前まで幕府の要職を解かれて左遷されていた身だったのですが、鳥羽・伏見の戦いで敗れた徳川慶喜に頼られて「海軍奉行並」「陸軍総裁」にまで昇進、2月には「陸軍取扱」という職に就いています。

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勝海舟(Wikipediaより)

つまり勝海舟と西郷隆盛の交渉というのは、軍のトップ会談だったわけです。
そして実は、勝が1月に海軍奉行並に就く直前から、既に一人の幕臣が犠牲になっていました。

その名は小栗忠順。彼は新政府軍との徹底抗戦を唱えた人で、勘定奉行・陸軍奉行並の任にも就いていました。しかし、もはや戦う気のなかった徳川慶喜に嫌われたのか、彼は罷免されました。

そして江戸城総攻撃が回避された後の4月4日、群馬県は東善寺にいるところを捕縛され、罪状も知らされないまま2日後に斬首されています(彼の処刑は実質「暗殺」のようなものだったとも言われています)。

また、江戸城が無血開城された直後、忠実な幕臣だった川路聖謨は、徳川幕府の敗北を嘆いて自害しています。

戊辰戦争も続きました。上野戦争では、もともと慶喜の護衛隊である彰義隊が敗れて上野は焼け野原に。東北でも、奥羽越列藩同盟の戦いや会津戦争が起きています。

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彰義隊の墓

さらには北越戦争や箱館戦争も忘れてはいけません。江戸城無血開城と言っても、単に江戸城だけは戦争をせずに明け渡されたというだけで、実際にはその前後に多くの死者が出ていたのです。

この無血開城によって、一部の無駄な犠牲を出さずに済んだのは間違いありません。


しかし勝と西郷の話し合いは決して停戦や休戦の協定のようなものではなく、この時日本は大きな内戦のさ中にありました。局地的にたまたま「無血」で済んだ戦闘が、文字通り徳川方の本丸だったというだけなのです。

無血開城という言葉の響きを、私たちは理想化・美化したイメージで捉えてしまっているのかも知れません。

参考資料

  • BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)
  • PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

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