■山内容堂は「暴君」だった?

『お~い!竜馬』という漫画があります。坂本龍馬が主人公なのですが、これを読むと、当時の土佐藩主だった山内容堂について「とんでもない極悪人だったんだな……」という印象を受けます。


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山内容堂(Wikipediaより)

そこに描かれている人物像は、冷酷な日和見主義者です。真昼間から酒をかっくらい、領民は斬り捨て御免。日和見の態度丸出しで、武市半平太を利用し尽くしたかと思えば、勤皇とも佐幕ともつかない態度を責められて逆上し、武市をぶん殴って見下しながら死刑を宣告する…。

では、実際はどうだったのでしょうか?

確かに坂本龍馬のような倒幕派からすれば、公武合体派(朝廷と幕府を一体化させる立場)の土佐藩主・山内容堂は極悪人としか思えないでしょう。

しかし、実は政治能力は優れていました。

土佐藩主として富国強兵を主張し、洋式兵器も採用するなどさまざまな改革を実施しています。

しかも吉田東洋、後藤象二郎を起用するなど、人を見る目もあったと思われます。

幕末期の土佐藩主・山内容堂は本当に極悪人だったのか?その実像に迫る


若き日の後藤象二郎(Wikipediaより)

その優れた政治能力は土佐藩からやがては幕政にまで及び、「幕末四賢侯」の一人として今も名を馳せています。

さらに、実は「大政奉還」を建議したのも容堂です。

ではなぜ、彼は「極悪人」と見られるようになったり、日本史上でもなんとなく存在感の薄い人物になってしまったのでしょうか。

本稿では、それを探っていきます。

■「中途半端」だった容堂

まず、山内容堂は「中途半端」な人物でした。
彼の幕末期の思想的立ち位置が、今だったら中田カウスボタンにネタにされそうなポジションだったのです。

その中途半端ぶりを表す言葉に、「容堂は酔えば勤皇、覚めれば佐幕」というのがあります。

酔えば、というのは、容堂が大の酒好きだったことにちなんだものです。彼は朝廷を政治に参画させるべきだと考える「勤皇派」ではあったものの、土佐藩は徳川家にも強く恩がある立場であったため、「佐幕派」としての気持ちもありました。

なぜ、土佐藩は徳川家に恩義があったのでしょう?

時代は1600年、関ヶ原の戦いに遡ります。

もともと山内家は現在の静岡県にある掛川を治めていましたが、戦いでは最終的に徳川の側につき、功労の印として土佐を統治することになりました。

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山内家歴代当主が居住した高知城

この出来事があってこそ山内家、そして容堂の今があったわけです。

思想的には勤王派、立場的には佐幕派。この中途半端さのせいで、土佐藩内部でも佐幕派と勤皇派の対立を生み出すことになりました。

その結果、土佐藩は倒幕から明治維新までの流れの中で薩長に遅れをとる結果になったと言われています。

■「差別意識」が抜け切らなかった容堂

次に、容堂の中にあった差別意識の問題です。

もともと、土佐のあたりの地域は、山内家以前は長宗我部氏が支配していました。


そのため長宗我部氏側の土着の侍は、山内家とその家臣がやってくると、身分の低い地位に追いやられます。

ここに、土佐藩独特の差別構造が生まれます。

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山内家下屋敷長屋

この差別構造は山内家の中で先祖代々引き継がれ、容堂も土着の侍のことを蔑視していました。

坂本龍馬、武市半平太などの人物、伝記・小説・漫画でよく言われる「郷士」ですね。

容堂はこの差別意識がいつまでも抜けず、身分の下のものを軽んじていました。

興味深いエピソードがあります。坂本龍馬は勝海舟の弟子でしたが、勝が容堂に坂本龍馬のことを話しても「知らない」と答えたそうで、軽んじていた、無関心だったことが読み取れます。

倒幕派の武市半平太に切腹を命じたのも、腹心だった吉田東洋を暗殺した報復という意味合いもあったのでしょう。差別意識が邪魔をして、武市の国を憂える純粋な気持ちを理解できなかったのかも知れません。

先述した「中途半端さ」と「差別意識」の2つが、大局を見る妨げとなり、結果として容堂ならびに土佐藩は、幕末から明治にかけての日本史の中で薩長の影に隠れたともいえます。

しかし、晩年はそうしたことを悔いてか、酒が入ると「半平太、許せ」とうわ言を言っていたとか(こういう「もっともな」エピソードは真偽が怪しいことも多いですが)。

また、イギリス公使館員のA・B・ミットフォードが京都の容堂の屋敷を訪問した際、彼のことを「きわめて洗練された優雅な態度で礼儀正しく応対してくれた」と評しています。


また文人気質でもあり漢詩をよく詠みました。

「日和見で、武市半平太を死に追いやった人」という極悪人イメージが強い山内容堂ですが、それは一面的な見方だということが分かります。

もちろん、人間が「極悪人か善人か」で完全に割り切れるわけもなく、当たり前と言えば当たり前なのですが。

それだけに、「悪人」「善人」とレッテルを貼られた歴史上の人物については、立体的に見ていく目線が必要なのでしょう。

ちなみに最初に挙げたマンガ『お~い!竜馬』でも、容堂は基本的に極悪人として描かれているものの、後半になるとほとんど姿を見せません。いつの間にか作中から消えたかと思えば、後藤象二郎らもなんとなく坂本竜馬と和解している……そんな流れになっています。

おそらく漫画の中で「救いようのない極悪人」として描かれてしまったせいで、彼が日本史の中で実際に果たした役割との辻褄が合わなくなったのでしょう。

作画担当の小山ゆうもこの点は苦悩があったようですが、原作者の武田鉄矢が「容堂=極悪人」のイメージを貫いてしまったようです。

参考資料
高知県立坂本龍馬記念館
土佐の人物伝

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

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