皆さんには、ライバルがいますか?互いに競い合うことで切磋琢磨できる関係は、とても大切なものです。
今回は戦国時代、徳川家康(とくがわ いえやす)に仕えて武功を競い合った二人のエピソードを紹介。
一人は松平康安(まつだいら やすやす※。善四郎)、もう一人は山田正勝(やまだ まさかつ。平一郎)。
※松平康安について「やすやす」とは人の名前として不自然すぎるとは思いますが、『寛政重修諸家譜』にはそうルビがふってあります。人名漢字としては康を「みち」と読んで「みちやす」とする方が自然に感じますが……また晩年に出家して法号を道白(どうはく)としており、この道が康を「みち」と読んだヒントになるかも知れません。余談ながら。
さて、彼らはどんな活躍を見せてくれるのでしょうか。
■長篠の合戦にて
時は天正3年(1575年)5月、徳川家康は三河国長篠城(現:愛知県新城市)に攻めて来た武田勝頼(たけだ かつより)の軍勢を迎え撃ちました。後世に言う長篠の合戦です。
長篠の合戦。「長篠合戦図屏風」
善四郎は誰よりも真っ先駆けて敵中へ殴り込み、大いに暴れ回って甲首(かぶとくび。兜をかぶっている≒相応に名が高い者の首級)を一つ持って来ました。
「おぉ、善四郎が一番首か?でかしたぞ!」
さっそく首実検(くびじっけん。誰の首級かを検める評価査定)を受けていると、遅れて平一郎が首級を持って来ます。
善四郎は笑って言いました。
「やい平一郎よ、そなたは日ごろ『武功一等』『斬込一番』など大法螺ばかり吹いておるくせに、首級が遅れたのはどうしたことか」
からかわれた平一郎は、とっさに嘘を吐(つ)いてごまかします。
「う、うるせぇ。わしの方が早かったわい。最初の首級はとっくに検(あらた)め、これは二つ目の首級じゃ」
声色から嘘は察しがついたものの、それを追及してもあまりカッコよくありません。そこで善四郎は「ちょっと待ってろ」とその場を立つと、再び敵中へと殴り込んでいきました。
二つ目の首級を持って自陣へ駆け戻る善四郎(イメージ)
「ほれ、これで二つ目じゃ!」
あっという間に善四郎は二つ目の首級を持って帰ると、平一郎はぐうの音も出ません。その様子に家康は「勝負あり」と感心したということです。
■遠目坂の合戦にて
さて、次はどうでしょうか。
時は天正8年(1580年)8月、遠目坂で武田軍と戦った時のこと。今回も善四郎と平一郎は先駆けを争っていると、敵の猛将・朝比奈彦右衛門眞直(あさひな ひこゑもんさねなお)が兵をまとめていました。
彦右衛門は二人の接近に気づき、兵の損耗を避けようと有利な場所まで後退しようと考えていたようです。
兵をまとめて後退する彦右衛門(イメージ)
「あやつらは、そなたたちで敵う相手ではない。匹夫の勇に逸って無駄死にするでないぞ」
山中での機動力を確保するため、馬に乗って来なかった二人。このままでは逃げられてしまいます。
「おい、善四郎」
「何じゃ」
「わしがヤツの注意を引きつけるから、お主が背後から討ち取れ」
二人がかりで、しかも不意討ちなんて……と思うかも知れませんが、ここは戦さ場ですから、勝つことこそ肝要というもの。
「相分かった」
さっそく平一郎は前から、善四郎は背後から彦右衛門を挟み撃ちに。
「喰らえ!」
善四郎が繰り出した渾身の一撃は、わずかに逸れて彦右衛門が背中に差していた旗指物を切り落とします。
「あっ、逃げるな卑怯者!」
どの口が吐(ぬ)かすか……体勢を立て直した彦右衛門は駿馬を駆ってたちまち窮地を脱出。
馬にさえ乗って来ていれば……(イメージ)
「お主の失点じゃぞ」
「……面目ない」
逃がした魚は大きく、今回の合戦ではこれ以上のチャンスには恵まれなかったようです。
■終わりに・ライバル対決の結果は?
以上、松平善四郎康安と山田平一郎正勝の対決?を紹介して来ました。
長篠の合戦では善四郎の勝ち、遠目坂の合戦では善四郎の失点……ということでプラマイゼロ。今回の勝負?は引き分けとなったようです。
※『寛政重修諸家譜』を読む限り、二人の対決シーンは他にないので……。
二人はその後も大いに活躍するのですが、その辺りはまたの機会に紹介できればと思います。
現代に生きる私たちも、よきライバルと切磋琢磨できるよう心がけたいものですね。
※参考文献:
今回は戦国時代、徳川家康(とくがわ いえやす)に仕えて武功を競い合った二人のエピソードを紹介。
一人は松平康安(まつだいら やすやす※。善四郎)、もう一人は山田正勝(やまだ まさかつ。平一郎)。
※松平康安について「やすやす」とは人の名前として不自然すぎるとは思いますが、『寛政重修諸家譜』にはそうルビがふってあります。人名漢字としては康を「みち」と読んで「みちやす」とする方が自然に感じますが……また晩年に出家して法号を道白(どうはく)としており、この道が康を「みち」と読んだヒントになるかも知れません。余談ながら。
さて、彼らはどんな活躍を見せてくれるのでしょうか。
■長篠の合戦にて
時は天正3年(1575年)5月、徳川家康は三河国長篠城(現:愛知県新城市)に攻めて来た武田勝頼(たけだ かつより)の軍勢を迎え撃ちました。後世に言う長篠の合戦です。
長篠の合戦。「長篠合戦図屏風」
善四郎は誰よりも真っ先駆けて敵中へ殴り込み、大いに暴れ回って甲首(かぶとくび。兜をかぶっている≒相応に名が高い者の首級)を一つ持って来ました。
「おぉ、善四郎が一番首か?でかしたぞ!」
さっそく首実検(くびじっけん。誰の首級かを検める評価査定)を受けていると、遅れて平一郎が首級を持って来ます。
善四郎は笑って言いました。
「やい平一郎よ、そなたは日ごろ『武功一等』『斬込一番』など大法螺ばかり吹いておるくせに、首級が遅れたのはどうしたことか」
からかわれた平一郎は、とっさに嘘を吐(つ)いてごまかします。
「う、うるせぇ。わしの方が早かったわい。最初の首級はとっくに検(あらた)め、これは二つ目の首級じゃ」
声色から嘘は察しがついたものの、それを追及してもあまりカッコよくありません。そこで善四郎は「ちょっと待ってろ」とその場を立つと、再び敵中へと殴り込んでいきました。

二つ目の首級を持って自陣へ駆け戻る善四郎(イメージ)
「ほれ、これで二つ目じゃ!」
あっという間に善四郎は二つ目の首級を持って帰ると、平一郎はぐうの音も出ません。その様子に家康は「勝負あり」と感心したということです。
「康安先手にすゝみ、甲首一級をうち取て実験に備へ、山田平一郎正勝をくれて首をとり来るを見て、日頃の大言にも似ず、なぞをそかりしといふ。正勝いつはりて、我汝よりさきにえたる首とく実験に備へたり。これは二たびぞとこたふ。康安きゝもあへず、我汝にまくべきやといひざま、乗出して敵陣にはせいり、また首とりて来りければ、東照宮御感あり」
※『寛政重修諸家譜』巻第二十六より
■遠目坂の合戦にて
さて、次はどうでしょうか。
時は天正8年(1580年)8月、遠目坂で武田軍と戦った時のこと。今回も善四郎と平一郎は先駆けを争っていると、敵の猛将・朝比奈彦右衛門眞直(あさひな ひこゑもんさねなお)が兵をまとめていました。
彦右衛門は二人の接近に気づき、兵の損耗を避けようと有利な場所まで後退しようと考えていたようです。

兵をまとめて後退する彦右衛門(イメージ)
「あやつらは、そなたたちで敵う相手ではない。匹夫の勇に逸って無駄死にするでないぞ」
山中での機動力を確保するため、馬に乗って来なかった二人。このままでは逃げられてしまいます。
「おい、善四郎」
「何じゃ」
「わしがヤツの注意を引きつけるから、お主が背後から討ち取れ」
二人がかりで、しかも不意討ちなんて……と思うかも知れませんが、ここは戦さ場ですから、勝つことこそ肝要というもの。
「相分かった」
さっそく平一郎は前から、善四郎は背後から彦右衛門を挟み撃ちに。
「喰らえ!」
善四郎が繰り出した渾身の一撃は、わずかに逸れて彦右衛門が背中に差していた旗指物を切り落とします。
「あっ、逃げるな卑怯者!」
どの口が吐(ぬ)かすか……体勢を立て直した彦右衛門は駿馬を駆ってたちまち窮地を脱出。
二人は必死に追いすがるも、ついに取り逃がしてしまいました。

馬にさえ乗って来ていれば……(イメージ)
「お主の失点じゃぞ」
「……面目ない」
逃がした魚は大きく、今回の合戦ではこれ以上のチャンスには恵まれなかったようです。
「康安山田正勝とともに足軽となりて先をかけければ、武田がた朝比奈彦右衛門眞直これを見て、歩卒をうたせじとひきまとゐ山にそひて退く。眞直はきこふる勇士にして而も駿馬に乗りしかば、正勝と相はかり、正勝前をさへぎり、康安うしろよりかゝりて眞直が指物をきりおとす。然れども馬つよく主剛なるゆへ、遂にのがれさる」
※『寛政重修諸家譜』巻第二十六より
■終わりに・ライバル対決の結果は?
以上、松平善四郎康安と山田平一郎正勝の対決?を紹介して来ました。
長篠の合戦では善四郎の勝ち、遠目坂の合戦では善四郎の失点……ということでプラマイゼロ。今回の勝負?は引き分けとなったようです。
※『寛政重修諸家譜』を読む限り、二人の対決シーンは他にないので……。
二人はその後も大いに活躍するのですが、その辺りはまたの機会に紹介できればと思います。
現代に生きる私たちも、よきライバルと切磋琢磨できるよう心がけたいものですね。
※参考文献:
- 中塚栄次郎『寛政重脩諸家譜 第一輯』國民圖書、1922年12月
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan
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