今回は、この名言の元となった暗殺事件や当時の日本の環境についてみていきましょう。
犬養毅
■犬養毅と当時の日本
犬養毅は、新聞記者だった頃から40年以上「立憲政治」の理想を抱き、1931年に76歳という高齢で第29代総理大臣となった人物です。
立憲政治と言うのは、「憲法に則り、ルールを守って政治を行う」という考え方のことです。
しかし、犬養毅が総理大臣になってから日本の経済が悪化。軍中心の政治や戦争をして経済回復をしようといった声が大きくなってしまいます。
そのため犬養毅は、話し合いで成り立っていた立憲政治が破綻し、「武力中心の政治」になってしまうことを恐れていました。
■五・一五事件
一向に戦争を始めようとしない犬養毅の政治に国民の不満は爆発。1932年5月15日、ついに事件が起きてしまいます。
複数の若い軍人がピストルを構えて、犬養毅の自宅に乗り込んできたのです。
ピストルは発砲されましたが、奇跡的に不発。
このような状況でも犬養毅は「話し合いで解決する」という立憲政治の考え方にこだわり、動揺することなく、「話し合いをしよう」と若い軍人たちを客室に案内したそうです。
そして、自身の考え方やこれからの日本について語ろうとしました。しかし、駆けつけた別の軍人が発砲した弾丸が犬養毅の体に命中。
けれど犬養毅は重症を負っているにもかかわらず、「発砲した男と話し合いがしたいから連れてきてくれ。話せばわかるから」と語って亡くなったそうです。
この事件は、五・一五事件と呼ばれ、当時の日本に大きなショックを与えました。
武力で物事を解決する軍のやり方に怯えた政治家たちは、軍への反対意見ができなくなります。
そしてその後、軍の味方をする新聞社が増え続け、軍を止めることができなくなった日本は大きな戦争へと突き進むことになるのです。
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