北条義時(演:小栗旬)と八重姫(演:新垣結衣)の間に生まれた長男・金剛(こんごう)。後の鎌倉幕府第3代執権となる北条泰時(演:坂口健太郎)です。


「御成敗式目(ごせいばいしきもく)を作った人でしょ?歴史の教科書で習ったよ」

という方も多いでしょうが、もちろんそれだけではありません。でも、あんまりよく知らない……と言う方も多いのではないでしょうか。

この予習は必須!【鎌倉殿の13人】北条泰時の生涯と実績をたど...の画像はこちら >>


北条泰時。歌川国芳筆

そこで今回は、北条泰時の生涯をたどってみたいと思います。NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の予習になれば幸いです。

■誕生から承久の乱まで

北条泰時は源平合戦の真っ最中である寿永2年(1183年)、義時と阿波局(あわのつぼね。
実名不詳)の長男として生まれました。

八重姫が生んだとするのは大河ドラマの創作設定(※)。阿波局自身に謎が多いため、融通を利かせたのでしょう。

(※)大河ドラマの時代考証を担当した坂井孝一氏の推論に基づくとか。ただし論拠に乏しく、批判もあります。

また、義時の妹も阿波局(大河ドラマでは実衣。
演:宮澤エマ)と称しますが、彼女は史実でも阿野全成(演:新納慎也)に嫁いでいるため完全に別人です。

幼いころから主君である源頼朝(演:大泉洋)から寵愛を受けており、10歳の時に非礼をはたらいた御家人をかばったため自分の太刀を授けたとか。

この予習は必須!【鎌倉殿の13人】北条泰時の生涯と実績をたどる。御成敗式目だけじゃないぞ:前編


伝頼朝公肖像。この太刀を泰時も佩いた?と想像すると胸が熱い(イメージ)

なお、この太刀は後に後鳥羽上皇(演:尾上松也)との最終決戦「承久の乱(承久3・1221年)」において佩いており、鎌倉を守護する聖剣として威力を発揮するのでした。

建久5年(1194年)2月2日、13歳で元服。頼朝が烏帽子親となって頼の字を拝領、江間太郎頼時(えまの たろうよりとき)と改名します。


この時点で父の義時は嫡男でないため北条の家督を継いでおらず、所領の江間を苗字に名乗っていました。

しかし正治元年(1199年)に頼朝が急死すると泰時と改名(厳密な時期は不明)。また建仁2年(1202年)8月23日に父の盟友である三浦義村(演:山本耕史)の娘を正室に迎えます。

劇中では初(はつ)という名前になっていますが実名は不詳。後に出家して矢部禅尼(やべのぜんに)と名乗りました。彼女は文治3年(1187年)生まれなので大河ドラマとは矛盾が生じますが、そこはご都合主義で見逃して下さい。


(あるいは別に女児が生まれたのかも知れませんが、それぞれ別の夫に嫁いでいるし、話がごっちゃになってしまうのでこのままいくものと予想されます)

また一説(予想)では、ナレーションの長澤まさみが矢部禅尼として登場するのでは?とも言われているようです。

この正室とは建仁3年(1203年)に長男の北条時氏(ときうじ)を授かったものの後に離婚。継室として武蔵国の御家人・安保実員(あぶ さねかず)の娘を迎えました。彼女との間には次男の北条時実(ときざね)などを授かっています。

この予習は必須!【鎌倉殿の13人】北条泰時の生涯と実績をたどる。御成敗式目だけじゃないぞ:前編


第2代「鎌倉殿」源頼家肖像。建仁寺蔵

建仁3年(1203年)と言えば第2代将軍・源頼家(演:金子大地)の舅として権勢を振るっていた比企能員(演:佐藤二朗)を粛清した「比企の乱」が勃発。
北条氏によるクーデターに泰時も参加、初陣を勝利で飾りました。

建暦元年(1211年)に修理亮(しゅりのすけ)に任官、建暦3年(1213年)には義時の政敵・和田義盛(演:横田栄司)を滅ぼした「和田合戦」に参加。その戦功により陸奥国遠田郡(現:宮城県遠田郡)の地頭職を与えられます。

建保6年(1218年)には侍所別当を拝命し、承久元年(1219年)には従五位上・駿河守に叙位・任官しました。

そして後鳥羽上皇との最終対決「承久の乱」では鎌倉方の総大将として出陣(父・義時は鎌倉で留守番)。鎌倉を出る時にはたった20騎だったのが、進軍するうち雲が龍に従うごとく大軍勢に。


かつて頼朝から授かった聖剣を掲げて大勝利を収めた泰時は、叔父の北条時房(演:瀬戸康史)と共に六波羅探題を務め、朝廷の監視や西国武士の統括に当たったのでした。

■義時の後継者となり、新「鎌倉殿の13人」を結成

ここまででも大活躍の泰時ですが、彼の人生はまだまだこれから。

この予習は必須!【鎌倉殿の13人】北条泰時の生涯と実績をたどる。御成敗式目だけじゃないぞ:前編


承久の乱に勝利した北条泰時。月岡芳年筆

貞応3年(1224年)6月13日に父の義時が急死したため鎌倉へ戻った泰時は、継母である伊賀の方(いがのかた)が生んだ異母弟・北条政村(まさむら)との後継者争いに巻き込まれます。

後世に言う「伊賀氏の変」は北条政子(演:小池栄子)と大江広元(演:栗原英雄)の協議により、泰時と時房を執権とすることで決着。

伊賀の方は幽閉されたものの、政村や彼を担いだ疑いのある三浦義村は不問に処されるなど、処分は甘めだったようです(政村は第7代執権に就任)。

(そのため、政子の狙いは単に伊賀の方やその一族の勢力を削ぐことであったとの説もあります)

かくして北条の家督を継いだ泰時は、亡き父の遺領を弟や妹たちに配分。その時、恨みが出ないよう自分の分け前を少なくしました。

心配した政子が「もっと多く取ってはどうか(勢力基盤を固めないと、また兄弟間で争いが起きるかも知れないから)」と勧めますが、泰時は「自分は執権だから」と気持ちだけ受け取ったと言います。

大きな権力を持つからこそ私欲を追及してはならず、誰よりも公正でなければ人はついて来ないことをよく理解していたのでしょう。

嘉禄元年(1225年)6月10日に大江広元、7月11日に政子が相次いで亡くなると、泰時は難局を乗り切るため頼朝から政子にいたるまでの専制政治から合議政治を提唱。

以前も「鎌倉殿の13人」こと十三人の宿老による合議制を模索していたものの、宿老たちの寿命や血で血を洗う権力抗争により、あっけなく瓦解したのは周知のとおり。

この予習は必須!【鎌倉殿の13人】北条泰時の生涯と実績をたどる。御成敗式目だけじゃないぞ:前編


御家人たちをまとめていった北条泰時。小林清親筆

今度は執権と連署(れんしょ。署名を連ねる副執権)を取りまとめ役に、11名の評定衆(ひょうじょうしゅう)と合わせて13名の合議制を再編……こちらも「鎌倉殿の13人」ですね。

【新「鎌倉殿の13人」結成時メンバー】

執権・北条泰時
連署・北条時房
後藤基綱(ごとう もとつな)
斎藤長定(さいとう さがさだ)
佐藤業時(さとう なりとき)
中条家長(ちゅうじょう いえなが)
中原師員(なかはら もろかず)
二階堂行村(にかいどう ゆきむら。13人の一・二階堂行政の子)
二階堂行盛(にかいどう ゆきもり。行村の甥)
三浦義村(みうら よしむら)
三善倫重(みよし みちしげ。矢野倫重)
三善康連(やすつら。太田康連。13人の一・三善康信の子)
三善康俊(やすとし。町野康俊。康連の兄)

※評定衆11名は50音順。

※一説にはこの時に初めて「執権」という言葉が使われ、初代の北条時政(演:坂東彌十郎)と義時は『吾妻鏡』の編纂時にさかのぼって執権扱いにされたとか。

新体制に生まれ変わったことを示すかのように、将軍御所をこれまでの大蔵(おおくら。清泉小学校敷地)から宇都宮辻子(うつのみやずし。若宮大路の東側)へと移転します。

また、京都から迎えていた三寅(みとら。8歳)が元服、藤原頼経(よりつね)と改名。明けて嘉禄2年(1226年)の征夷大将軍宣下をもって、晴れて第4代「鎌倉殿」に。

この頼経は頼朝の妹である坊門姫(ぼうもんひめ)の孫に当たり、血統的には遠縁ながら源氏の一員と言えます。

この予習は必須!【鎌倉殿の13人】北条泰時の生涯と実績をたどる。御成敗式目だけじゃないぞ:前編


暗殺される実朝(中央)。香朝楼「歌舞伎座新狂言 星月夜 鎌倉石段之場」

第3代・源実朝(演:柿澤勇人)が建保7年(1219年)に暗殺されてから7年の空位を乗り越え、再び鎌倉に大義名分が復活したのでした。

ただし、これからの鎌倉殿はあくまでお飾りに過ぎず、幕政の実権は執権・連署をはじめ評定衆によって握られています。これが武士の武士による武士のための政治のはじまり、まさに「武士の世」の幕開けとも言えるでしょう。

【後編へ続く】

※参考文献:

  • 上横手雅敬『北条泰時』吉川弘文館、1988年10月
  • 坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏 義時はいかに朝廷を乗り越えたか』NHK出版、2021年9月
  • 高橋慎一朗『武士の掟 「道」をめぐる鎌倉・戦国武士たちのもうひとつの戦い』新人物往来社、2012年2月
  • 永井晋『鎌倉幕府の転換点 『吾妻鏡』を読みなおす』NHKブックス、2000年12月
  • 細川重男『頼朝の武士団 鎌倉殿・御家人たちと本拠地「鎌倉」』朝日新書、2021年11月

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan