この曽我兄弟の仇討ち、赤穂浪士による討ち入りと並んで「日本三大仇討ち」と呼ばれた事件が、伊賀越(いがごえ)の仇討ちでした。
いったい、何がきっかけでこの仇討ちは起きたのでしょうか?そして、どんな結末が待っていたのでしょうか?
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■伊賀越の仇討ちとは?
伊賀越道中双六 勝川春亭画
伊賀越の仇討ち(鍵屋の辻の決闘(かぎやのつじのけっとう)とも呼ばれますが、この記事では伊賀越の仇討ち、という表記で統一します)は、江戸時代の寛永11年(1634年)に伊賀野国上野の鍵屋の辻(現在の三重県伊賀市小田町)が舞台です。
岡山藩士の渡辺数馬(わたなべかずま)と彼の義理の兄・荒木又右衛門(あらきまたえもん)が数馬の弟である源太夫の仇討ちをします。相手は、同じく岡山藩士の河合又五郎でした。
■数馬の弟の死の理由は?
渡辺数馬の弟で小姓だった渡辺源太夫は、岡山藩主である池田忠雄から寵愛されていましたが、藩士の河合又五郎に関係を迫られ、それを拒絶します。断られたことに逆上した又五郎は源太夫を殺害してしまいました。
源太夫の死を悼んだ池田忠雄の命を受けて、数馬と荒木又右衛門は又五郎を討ちました。
■日本三大仇討ちにまつわるトリビア
最後に、「日本三大仇討ち」に関するちょっとした雑学をご紹介します。みなさんは、「一富士二鷹三茄子(いちふじ・にたか・さんなすび)」という言葉を聞いたことがあるでしょうか?
初夢に見ると縁起が良いものを表したフレーズとして有名ですが、これが「日本三大仇討ち」のことを指しているのではないかという説があるのです。
それは次のような理由から。
一富士:曾我兄弟の仇討「仇討場所が富士の裾野」
二鷹:忠臣蔵(赤穂浪士の討ち入り)「播州赤穂浅野家の家紋が違い鷹の羽」
三茄子:伊賀越仇討「伊賀は茄子の産地」また荒木又右衛門が「名を成した」
また、この説をさらに分かりやすく示した「一に富士、二に鷹の羽の打ち違い、三に上野の花ぞ咲かせる」や「一に富士、二に鷹の羽の打ち違い、三に名を成す伊賀の仇討ち」という言葉もあります。
知っていると、お友達や家族に少しだけ自慢できるかもしれません。
いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも歴史の面白さに興味を持つきっかけになれば嬉しいです!
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