■悲劇の銃撃戦

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戦地に駆り出された少年たち!白虎隊が自刃し悲劇の最期を迎えるまで【前編】

さて、出陣命令を受けた白虎隊はさっそく戸ノ口原に向かいますが、出陣当日は日没を迎えたことで、戦闘は一時中断。

その夜は、進軍してくる新政府軍に備えて陣地を築くことになり、白虎隊も徹夜の作業に参加しました。


そして23日の朝5時ごろ、白虎隊の一部が、接近してきた新政府軍に一斉射撃を開始します。

最初こそ慌てた様子を見せた新政府軍でしたが、次第に押し返されて、会津軍は劣勢となります。やはり、新政府軍の方が、銃の性能は圧倒的に勝っていました。

新政府軍の使う銃は最新式で、飛距離が800~1,200m。これに対して会津軍の銃は城に残っていた旧式のもので飛距離は200~300m程度でした。

それでも少年たちは、銃身が熱くなり素手で持てなくなるまで発砲し続けます。その結果、白虎隊からは3名の死者が出て、ついに持ちこたえきれずに撤退しました。少年たちは、街道を引き返して飯盛山の東側へ逃れます。

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飯盛山より鶴ヶ城を望む

■少年たちの絶望

飯森山の山裾には、猪苗代湖から若松城下へ水を引くための用水路である戸ノ口堰洞門があり、水路は山の西側に通じていました。

戦地に駆り出された少年たち!白虎隊が自刃し悲劇の最期を迎えるまで【後編】


飯森山の戸ノ口堰洞穴

隊士たちは洞門を潜り抜けて冷たい水の中を進み、若松城下が一望できる高台に到着します。

しかし、そこで目の当たりにしたのは、炎に包まれた若松城と城下町の光景でした。

隊士の野村駒四郎は城に入って敵と戦うことを提案しますが、篠田儀三郎は「城に入るのは不可能ではないが、誤って敵に捕まり捕虜となったら君主や先祖に申し訳ない。
潔くここで自刃し武士の本分を明らかにすべき」と提案します。

最終的にはこの意見に全員が賛成し、午前11時ごろ、少年たちは集団自決を決断。このとき、20名のうち19名が死亡しましたが1人だけが奇跡的に生き延びます。

■最後の生き残り

生き残った少年の名は飯沼貞吉。彼は喉元を脇差で刺したものの死に切れず、苦しんでいたところを会津藩士・印出新蔵の妻ハツによって発見されて、長岡藩の軍医の手当てによって一命を取り留めます。

彼はのちに通信技師となり全国各地に赴任し、日清戦争にも従軍するなどして日本の電信事業に貢献し、昭和6(1931)年に77歳で亡くなります。

貞吉は自分だけが生き残ったことを恥と思っていたようで、生涯を通して白虎隊のことを語らなかったそうです。

しかし彼が生き残ったことで、白虎隊の悲劇は後世まで伝わっていくことになりました。

その遺髪は、本人の遺言により、飯盛山にある同志たちの墓のそばに埋められています。そして、今でも白虎隊士の墓には多くの人が訪れています。

戦地に駆り出された少年たち!白虎隊が自刃し悲劇の最期を迎えるまで【後編】


白虎隊十九士の墓

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