時は元久2年(1205年)6月、畠山重忠(演:中川大志)・畠山重保(演:杉田雷麟)父子ら一族を滅ぼして武蔵国の実権を狙わんと企む北条時政(演:坂東彌十郎)。
必死に反対する北条義時(演:小栗旬)・北条時房(演:瀬戸康史)らの説得もむなしく、りく(演:宮沢りえ。
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「鎌倉殿の13人」畠山重忠・重保父子に迫る最期の刻。第35回放送「苦い盃」予習【前編】
■畠山重保を騙し討ち。そして……
快晴。寅尅。鎌倉中驚遽。軍兵竸走于由比濱之邊。可被誅謀叛之輩云々。依之畠山六郎重保。具郎從三人向其所之間。三浦平六兵衛尉義村奉仰。以佐久滿太郎等。さて、翌朝寅の刻(午前4:00ごろ)。相圍重保之處。雖諍雌雄。不能破多勢。主從共被誅云々……
※『吾妻鏡』元久2年(1205年)6月22日条
「謀叛ぞ!出会え、出会えーっ!」
鎌倉は突如騒然となり、重保は郎従3名を引き連れて現場へ急行しました。
「……待っておったぞ」
重保らを騙し討ちにする義村(イメージ)
駆けつけた由比ヶ浜にいたのは三浦義村(演:山本耕史)。郎党の佐久満太郎(さくま たろう)らに命じて重保らを包囲させます。
「おのれ平六、謀りおったな……え、従叔父上(稲毛重成)まで!」
重保らは果敢に抵抗したものの、いかんせん多勢に無勢。あえなく全滅してしまったのでした。
「おい小四郎。終わったぞ」
「……こうなったら、もはや後には退けぬ。いま次郎は鎌倉へ向かっておるが、道中で討ち果たす。
「「「おおう……っ!」」」
義時は鎌倉の留守に兵400ばかりを残して重忠討伐に乗り出します。大手の大将は義時が務め、率いた顔触れは以下の通り。
- 葛西清重(かさい きよしげ)
- 千葉常秀(ちば つねひで)
- 大須賀胤信(おおすか たねのぶ)
- 国分胤通(こくぶ たねみち)
- 相馬義胤(そうま よしたね)
- 東重胤(とうの しげたね)
- 足利義氏(あしかが よしうじ)
- 小山朝政(演:中村敦)
- 三浦義村
- 三浦胤義(みうら たねよし)
- 長沼宗政(ながぬま むねまさ)
- 結城朝光(演:高橋侃)
- 宇都宮頼綱(うつのみや よりつな)
- 八田知重(はった ともしげ)
- 安達景盛(演:新名基浩)
- 中条家長(ちゅうじょう いえなが)
- 苅田義季(かりた よしすえ)
- 狩野介入道(かのうのすけにゅうどう。狩野宗茂か)
- 宇佐美祐茂(うさみ すけもち)
- 波多野忠綱(はたの ただつな)
- 松田有経(まつだ ありつね)
- 土屋宗光(つちや むねみつ)
- 河越重時(かわごえ しげとき)
- 河越重員(しげかず)
- 江戸忠重(えど ただしげ)
- 渋河武者所(しぶかわ むしゃどころ。渋河兼守か)
- 小野寺秀通(おのでら ひでみち)
- 下河辺行平(しもこうべ ゆきひら)
- 薗田七郎(そのだ しちろう)
また、強豪である重忠がつぶれれば、武蔵国の利権(おこぼれ)に与れると期待しての加勢と考えられます。
一方、関戸(搦手)の大将は時房と和田義盛(演:横田栄司)。こちらも雲霞の如き大軍を率いて、重忠を挟み撃ちにしたのでした。
■完全包囲された重忠の最期
一方6月19日に地元を出て、鎌倉へ向かっていた重忠たちが義時・時房らの大軍と遭遇したのは正午ごろ(午の刻)、場所は武蔵国二俣川(現:神奈川県横浜市)。
「申し上げます。鎌倉にて六郎殿が討ち取られ、すぐそこまで敵の軍勢が迫っております!」
重忠が率いていたのは息子の畠山小次郎重秀(こじろうしげひで)や郎従の本田次郎近常(ほんだ じろうちかつね)、榛沢六郎成清(はんざわ ろくろうなりきよ)はじめ、わずかに134騎。
折悪しく舎弟の長野三郎重清(ながの さぶろうしげきよ)は信濃国へ、同じく畠山六郎重宗(ろくろうしげむね)は奥州に出張しており、兵力が圧倒的に不足しています。
「ここはひとまず本拠地へ引き返して立て籠もり、ご舎弟方の援軍を待ちましょうぞ」
しかし近常らの助言を断り、重忠は皆に言い聞かせました。

覚悟を決めた畠山重忠。月岡芳年「名誉八行之内 礼 畠山重忠」
「武士たる者、ひとたび家を出た以上は家族を忘れ肉親を忘れる覚悟が必要だ。六郎を喪ったいま、もはや帰る家はないも同じ。去んぬる正治2年(1200年)に梶原景時(演:中村獅童)殿がいっときの命を惜しんで討たれたが、ここは潔く戦い果てることで潔白を証明してやろうではないか。そもそも仮令潔白であれ(それこそ言いがかりであれ)、謀叛を疑われるような日ごろの油断をこそ恥じるべきだ」
こうして決死の覚悟を固めた重忠らに向かって、追討軍が押し寄せて来ました。その急先鋒は安達景盛。郎党の野田与一(のだ よいち)・加世次郎(かせ じろう)・飽間太郎(あきま たろう)・鶴見平次(つるみ へいじ)・玉村太郎(たまむら たろう)・与藤次(よとうじ)ら主従7騎が一丸となって突っ込んで来ます。
「おぉ、藤九郎(景盛)か。昔馴染みの親友と会えるのは、どんな場所でも嬉しいものだ……いいだろう。親友の誼だ、全力で殺してくりょうぞ!」
「いざ迎え討たん、勇気ある者はこの小次郎(重秀)に続け!」
「「「おおう……っ!」」」
ついに始まった畠山・北条両雄の決戦。
そもそも勝負は最初から見えているため、あえて死に物狂いで戦う相手に近寄って命を落としては死に損というもの。出陣したことである程度の恩賞(および戦後の厚遇)が確保されているのであれば猶更です。
さて、時は申の斜(午後17:00過ぎ。斜は終刻の意)に差しかかったころ、弓の達者である愛甲三郎季隆(あいこう さぶろうすえたか)が重忠を射止めました。
「敵の大将・畠山次郎、愛甲三郎が討ち取ったり!」
「父上ーっ!」
重忠の首級を掻っ攫った季隆はこれを義時の陣中へ持ち込み、いまだ奮戦していた小次郎重秀らは自害して果てたということです。
■悪いのはぜんぶ三郎……時政による苦しい責任転嫁

畠山重忠の最期。月岡芳年「芳年武者无類 畠山庄司重忠」
晴。未尅。相州已下被歸參于鎌倉。遠州被尋申戰塲事。「「……父上っ!」」相州被申云。重忠弟親類大略以在他所。相從于戰塲之者僅百餘輩也。然者。企謀叛事已爲虚誕。若依讒訴。逢誅戮歟。太以不便。斬首持來于陣頭。見之不忘年來合眼之眤。悲涙難禁云々。遠州無被仰之旨云々。酉尅。鎌倉中又騒動。是三浦平六兵衛尉義村。重廻思慮。於經師谷口。謀兮討榛谷四郎重朝。同嫡男太郎重季。次郎季重等也。稻毛入道爲大河戸三郎被誅。子息小澤次郎重政者。宇佐美与一誅之。今度合戰之起。偏在彼重成法師之謀曲。所謂右衛門權佐朝雅。於畠山次郎有遺恨之間。彼一族巧反逆之由。頻依讒申于牧御方〔遠州室〕。遠州潜被示合此事於稻毛之間。稻毛變親族之好。當時鎌倉中有兵起之由。就消息テ。重忠於途中逢不意之横死。人以莫不悲歎云々。
※『吾妻鏡』元久2年(1205年)6月23日条
翌日、畠山一族を滅ぼして鎌倉へ帰って来た義時・時房らは時政夫婦を詰(なじ)りました。
「何が謀叛ですか。坂東じゅうから大軍を率いて駆けつけてみれば、次郎が率いていたのはたったの百数十騎。それも囮ではなく無為無策のまま討たれたことが無実であった何よりの証拠……それなのに!」
あまりにも潔い重忠の最期を知って涙せぬ者はなかったと言いますが、しかしそれならば義時の現場判断で攻撃中止してもよさそうなものです。
(もちろんそんなことをしたら自分の身が危くなるのでしませんし、武蔵国の利権を目の前にして他の御家人たちを留めることも難しかったでしょう)
まぁ(現場で討伐を指揮した)義時自身への批判をかわすパフォーマンスは功を奏して、批判の眼差しは時政へと注がれました。
「いや小四郎、五郎聞いてくれ。あぁそうじゃ、三郎じゃ。此度のことはぜんぶ稲毛入道めが悪いんじゃ!」
「父上……」
「おい平六、何とかせぇ!」
「……かしこまりました」

経師谷にて、重成入道らの最期(イメージ)
義村は策を講じて重成らを経師谷(きょうじがやつ)へ誘い出し、当人はじめ息子の小澤次郎重政(おざわ じろうしげまさ)・弟の榛谷四郎重朝(はんがや しろうしげとも)などことごとく粛清します。
「まったく三郎め、一族の絆を忘れて畠山一族を討とうなどと言う企みに賛同しおって。そのせいで無用の血が流れてしまったわい……やれやれ」
(遠州潜被示合此事於稻毛之間。稻毛變親族之好。當時鎌倉中有兵起之由)
これで問題を解決したつもりの時政ですが、そそのかされた重成が共犯だとしても、一番悪いのはそそのかした時政=主犯ではないのでしょうか。
「とにかく、この件はもうおしまいじゃ。悪いのはぜんぶ三郎ハイ解散、ご苦労様でした。次行ってみよう!」
「「「……」」」
半ば開き直った御家人たちの間に、強い不信感が残ったのは言うまでもありません。
■エピローグ
そんな悲劇の翌月、7月1日に合戦以来となる酒宴が催されました。和田義盛による椀飯振舞です。
去月合戰以後。始於營中。有盃酒之儀。和田左衛門尉献之。「まぁ呑もうぜ」
※『吾妻鏡』元久2年(1205年)7月1日条
「あぁ……」
義時たちの酒はさぞ苦かったことでしょう。これが次週サブタイトル「苦い盃」の意味するところかと予想しています。

「やっぱり次郎がいないと、せっかくの酒も旨くねぇな。アイツの悪口言いながら呑むのが旨かったのに……」残念そうな義盛(イメージ)
ところで重忠が討たれた元久2年(1205年)6月22日、未の刻(午後2:00ごろ)に“のえ(演:菊地凛子。伊賀の方)”が義時の五男を出産しました。
……今日未尅。相州室〔伊賀守朝光女〕男子平産〔左京兆是也〕。彼が後の左京兆、北条政村(ほうじょう まさむら)です。重忠と入れ替わるように世へ出てきた彼は義時からこよなく愛されたと言います。もしかしたら、重忠の魂が乗り移ったかも知れませんね。
※『吾妻鏡』元久2年(1205年)6月22日条
ちなみに政村が生まれる10月10日前と言えば、元久元年(1204年)9月12日ごろ。その時点で妊娠したということは、それ以前から親密な関係を持っていた可能性が高く、前室の比奈(演:堀田真由。姫の前)が去ってから1年も経っていない計算です。
大河ドラマとはちょっと時間軸がズレますが、その辺りのご都合主義は大目に見てもらうとして、それより何より残念なのは重忠の死。
本作では第1回からずっと活躍してきたので、中川大志ファンはもちろん、感情移入してきた視聴者たちの大きなロスが予想されます。
しかし天網恢恢疎にして漏らさず。やがて時政・りく夫婦にもしっかり天罰が下るので、次週も心して見届けていきましょう。
【完】
※参考文献:
- 清水亮『中世武士 畠山重忠 秩父平氏の嫡流』吉川弘文館、2018年10月
- 貫達人『人物叢書 畠山重忠』吉川弘文館、1987年3月
- 細川重男『頼朝の武士団 鎌倉殿・御家人たちと本拠地「鎌倉」』朝日新書、2021年11月
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