日本史用語、特に刑罰の言葉としてインパクトたっぷりなのが「島流し」ではないでしょうか。「罪を犯した人が遠い島に流される刑でしょ?」とイメージする方が多いと思いますが、いつごろから島流しがあったか、ご存じですか?

今回の記事では、そんな日本における島流しの歴史に迫ってみたいと思います。


日本で最初の島流しは5世紀。あらためて知りたい「島流し・流罪...の画像はこちら >>


月岡芳年 画

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■島流しは「流罪」のひとつ

島流しというのは、「流罪(るざい)」という刑罰の一種です。罪を犯した人を辺境や島に送る追放刑で、送られる先が島の場合に「島流し」と言います。

流罪は、ほかにも流刑(るけい)や配流(はいる)などと呼ばれることがあります。日本では、1908年(明治41年)に廃止されるまで、古くから続きました。

■日本で最初の島流しは5世紀に

日本で記録として最初に残っている島流しは、5世紀ごろのことです。第19代天皇の允恭(いんぎょう)帝の時代に、皇太子の木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)と妹の軽大娘皇女(かるのおおいらつめ)が兄弟で情を通じていることがわかり、2人は伊予国(現在の愛媛県)に流されました。

■大宝律令に流刑に関する規定が

飛鳥時代の701年になると大宝律令によって、流刑に関する規定もなされました。都を起点に、近流(こんる)、中流(ちゅうる)、遠流(おんる)の3つにわかれ、罪が重いほど遠くに追放されました。天皇・貴族・僧侶などが政治闘争に負けて流刑になることが中心となりました。

隠岐には後鳥羽上皇や後醍醐天皇が、佐渡には順徳天皇、日蓮、世阿弥が流されましたが、流刑先は島に限らず、東北、諏訪、伊豆、四国、越前などにも及びました。

■島流しが増えた江戸時代

「島流し」と聞くと江戸時代をイメージする方も多いかもしれません。それもそのはず、江戸では人口増加に伴い犯罪も増えていきました。
罪人を牢屋に収容しきれなくなり、島流しとなる人も増えていったのです。

死罪の次に重い刑であった島流しは、徳川幕府8代将軍・徳川吉宗の治世下に制定された「御定書百箇条(1742年(寛保2年))」では流罪はすべて遠島に限定されました。

刑罰や訴訟法にまつわるルールを定めた御定書百箇条によると、賭博・殺人・鉄砲の不法所持・僧侶の女犯などが流罪になったようです。

蟄居、島流し、切腹など江戸時代の武士への刑罰にはどんなものがあったの?

いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも日本文化や歴史の面白さに興味を持つきっかけになれば嬉しいです。

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