■斎藤道三の娘

斎藤道三の娘にして、織田信長の正室でもあった濃姫ですが、有名な濃姫という名前は本名ではなく、「美濃から嫁いできた姫」という意味で呼ばれていたようです。

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濃姫像

本名は「帰蝶」もしくは「胡蝶」ともされていますが、これらは江戸時代の書物に記されている名前で、実際は定かではありません。
また、父・斎藤道三の居城が鷺山城だったことから「鷺山殿」とも呼ばれていました。

このように、濃姫は謎が多い女性でもあります。その生い立ちなどをたどってみましょう。

彼女は1535(天文4)年に斎藤道三と正室・小見の方との間に生まれました。母・小見の方は美濃(岐阜県南部)の明智家の出身で、明智光秀の叔母にあたるため、濃姫と光秀はいとこ同士ということになります。

斎藤道三の娘にして織田信長の正室・濃姫の波乱と謎に満ちた生涯を追う【前編】


斎藤道三(鷲林山常在寺所蔵・Wikipediaより)

その濃姫は、織田信長の正室として知られていますが、実はいわゆるバツイチでした。


最初に結婚した相手は、当時美濃の守護職だった土岐頼純で、嫁いだのは1546(天文15)年。頼純は23歳、濃姫は12歳でした。

■土岐家に嫁ぐも…

この、彼女の最初の結婚は政略結婚でした(信長との結婚もそうですが)。かつて斎藤道三は、主君である美濃の守護大名・土岐頼芸を追放して美濃国主となりましたが、頼芸は返り咲きを狙ってさまざまな方面と協力し、美濃国内へ攻め入ろうとしたのです。

苦境に陥った道三は、頼純を守護として大桑城へ迎え入れることにしました。そして、人質として濃姫を頼純に嫁がせたのです。


斎藤道三の娘にして織田信長の正室・濃姫の波乱と謎に満ちた生涯を追う【前編】


土岐頼純の肖像(Wikipediaより)

しかし、和睦による平穏は長くは続きませんでした。翌1547(天文16)年、頼芸と濃姫の夫・頼純が、道三に対して挙兵しようと準備を始めたのです。

この動きを察知した道三は先手を打って大桑城を攻め落とします。頼芸は越前へ逃亡し、頼純は死亡。濃姫はわずか13歳で未亡人となり実家へ戻ることになりました。

そして2年後の15歳の時に、今度はひとつ年上である信長のもとへ嫁ぐことになります。


■信長との関係にまつわる逸話

当時の信長は、普段の奇抜な服装や素行の悪さなどもあり大うつけと評されていました。

そして、濃姫が信長の元へ嫁ぐ際、道三は濃姫に「信長が噂通りの大うつけであったなら、その短刀で刺し殺せ」と言い、短刀を渡します。尾張の国も我が物にできると考えたのです。

すると、それを聞いた濃姫は「わかりました。しかし、もしかしたらこの短刀で父上を刺すことになるかもしれません」と答えたとされています。

斎藤道三の娘にして織田信長の正室・濃姫の波乱と謎に満ちた生涯を追う【前編】


また、信長と濃姫との間にはこんな逸話も伝わっています。
濃姫が信長に嫁いでから一年ほど経った頃、信長は毎晩のように寝所から抜け出しては、しばらくしてから戻ってくる行為を繰り返すようになりました。

浮気を疑った濃姫が問いただすと、信長は「斎藤家の家臣に謀反を起こすように策略をしたので、道三を討ち取ったという狼煙が上がるのを待っているのだ」と答えたのです。

驚いた濃姫が父・道三にその事を伝えると、道三は、その手紙に名前のあった家臣を殺害します。しかしこれは信長の策略で、嘘の噂を流し道三に家臣を殺させることを狙ってのことでした。

戦国時代の夫婦間では、常日頃からこのような駆け引きが行われていたようです。濃姫にとって心の休まる暇もない毎日だったことでしょう。


【後編】では、記録に残っていない彼女のその後について、いくつかの説を紹介します。

後編はこちらから

参考資料

  • 刀剣ワールド
  • 和樂web

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan