■斎藤道三の最期

【前編】では、濃姫が織田信長に嫁ぐまでの経緯を説明しました。

斎藤道三の娘にして織田信長の正室・濃姫の波乱と謎に満ちた生涯を追う【前編】

信長と濃姫の夫婦仲自体は悪くなかったようで、信長は何人か側室がいたものの濃姫を大切にしていたようです。


また、2人の間には子供はできませんでしたが、通説によると側室・生駒吉乃が産んだ信忠を、濃姫は嫡男として養子に迎え可愛がっていたとも伝わっています。

一方、道三ですが、1554(天文23)年に家督を嫡男・義龍に譲り隠居し、出家して道三と名乗るようになります。

しかし、道三は側室の子である義龍を嫌っていて、正室の子(濃姫の実弟)である2人の弟を偏愛していたため、いずれ義龍を廃嫡して後を継がせようと考え始めます。

これを知った義龍は、仮病を使い弟たちを殺害し道三に対し挙兵。そして1556(弘治2)年、道三は長良川の戦いで義龍に討ち取られました。

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斎藤道三によって近代城郭として大改修されたといわれる岐阜城

信長にとっては、よき理解者であり後ろ盾だった道三の死は大きな痛手で、美濃から援軍が得られないまま今川義元と戦うことになります。


■その後の消息は…?

そしてその後、濃姫は、斎藤家の菩提寺である常在寺に道三の肖像を寄進したのを最後に、記録上の消息が途絶えます。

彼女のその後については、主に四つの説があります。

まず一つ目が離縁説で、弘治2(1557)年に信長の側室・生駒吉乃が嫡男・信忠を懐妊した頃に離縁され、母の実家である明智城に送り返されたとする説です。

しかし、信長には離縁する理由が全くなく、この可能性は低いと考えられています。

次に、信長に嫁いだ後すぐに死去したとされる病死説があります。しかし、正室がそんなにすぐ亡くなったのに、その後信長の正室が一切出てこないのは不自然で、これも可能性は低いようです。


そして三つ目が戦死説で、1582(天正10)年に本能寺の変で信長と共に戦死したとするものです。

この説では、本能寺の変を描いた浮世絵「本能寺焼討之図」の中に描かれている薙刀を持って戦う女性が濃姫ではないかとしますが、証拠はありません。

斎藤道三の娘にして織田信長の正室・濃姫の波乱と謎に満ちた生涯を追う【後編】


『本能寺焼討之図』中央右奥の花柄の着物の人物が濃姫?(Wikipediaより)

■「安土殿」イコール濃姫?

最後の四つ目の説が、本能寺の変の後も生き延びたとする生存説です。織田家に仕えていた家臣団についてまとめた書物『織田信雄分限帳』には安土殿という女性が登場するのですが、これが濃姫ではないかとされています。

同書には織田家の女性達の化粧料についての記載がありますが、安土殿は全体の中で三番目に高い600貫となっており、かなり身分が高い女性だったようです。

また安土・総見寺所蔵の『織田家過去帳』によると、安土殿の戒名は「養華院殿要津妙玄大姉」とされており、そこには「慶長十七年壬子七月九日 信長公御台」と記載されています。


斎藤道三の娘にして織田信長の正室・濃姫の波乱と謎に満ちた生涯を追う【後編】


織田信長像&濃姫像

一般的に御台とは正室を指すことから、安土殿が濃姫だという説が最も有力と言えるでしょう。これが正解なら、濃姫は1612(慶長17)年、78歳まで生きたことになります。

時代に翻弄されたと言っても過言ではない人生を送った濃姫。その生涯は謎に包まれていますが、穏やかな余生を送ったと考えたいものです。

参考資料
刀剣ワールド
和樂web

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