昔から「泣く子と地頭(じとう)には勝てぬ」などと言うように、守護の下で領国支配の実務を担う地頭は(少なくとも領民にとって)強大な権限が認められていました。

なので地頭と聞くとコワモテの男性を連想しがちですが、鎌倉時代には女性の地頭(女地頭)も少なからず活躍していました。


従来の律令では認められなかった女性の家督相続や地頭就任が、東国では武家の慣習として御成敗式目に定められたのです。

親族に所領を奪われた慈恩(じおん)。「元寇」以後、姿を消して...の画像はこちら >>


竹崎季長『蒙古襲来絵詞』より

しかし、元寇(文永の役・弘安の役)をキッカケに西国では臨戦態勢を維持するため、女性の地頭が認められなくなっていきました。

今回はそんな女地頭の一人・慈恩(じおん)のエピソードを紹介したいと思います。

■名義を借りたが運の尽き

慈恩は現在の福岡県東部から大分県北部に当たる豊前国で地頭を務めていました。

※慈恩という名前は恐らく法名であり、夫に先立たれた未亡人として地頭職と遺領を受け継いだのでしょう。

ある時、幕府当局より現地の地頭と所領について申告を求められた時、こんな話を耳にします。

「どうやら今後、女子(おなご)の地頭は認められず、その所領は没収されるそうな」

そんな理不尽な……しかし一地頭が反対したところで幕府当局を相手に太刀打ちなどできません。

「なので久保殿、此度の申告では、どうか名義をお貸し下され」

慈恩は自分の地頭職と所領を、親族である久保種栄(くぼ たねよし)の名義で申告しました。

「えぇ、構いませんよ」

果たして申告は無事に済み、幕府当局による没収は避けられたのですが……。

「出ていって下さい。今日から当地は我がものとなりましたので」

親族に所領を奪われた慈恩(じおん)。「元寇」以後、姿を消していく女地頭たち【鎌倉時代】


これで一安心と思っていたら……慈恩を追い出す久保種栄(イメージ)

地頭職と所領を譲られた久保種栄は、たちまち慈恩を追い出してしまったのです。

「そんな、私はただ申告の時だけ名義を借りたかっただけなのに……」

「当局に申告した以上、地頭職と所領は我がものです。
もしご不満なら、訴え出られてはいかがか?」

まさか、そんな事をすれば不正がバレて、地頭職も所領も幕府に没収されてしまいます。

「ぐぬぬ……」

どう足掻いても自分の元へ戻らないなら、騒ぐだけ労力の無駄というもの。結局、慈恩は泣き寝入りするよりありませんでした。

■終わりに

まさに庇を貸して母屋を奪られてしまった慈恩。

その後、彼女が現地に留まって久保種栄の保護を受けたのか、あるいはどこへともなく去ったのかは分かりません。

親族に所領を奪われた慈恩(じおん)。「元寇」以後、姿を消していく女地頭たち【鎌倉時代】


世が乱れ、武力が支配する社会に(イメージ)

やがて元寇によって幕府の支配体制が揺らぎ、ついに鎌倉幕府が滅びると、各地で動乱が沸き起こります。

次第に東国でも女地頭では戦いに心もとないと思われたか、彼女たちは歴史の表舞台から姿を消して行ったのでした。

※参考文献:

  • 西田友広『16テーマで知る 鎌倉武士の生活』岩波ジュニア新書、2022年8月

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