茶屋四郎次郎は京都の豪商(財力があり、広く事業を行う商人の意味)として知られていますが、皆さんの中には茶屋四郎次郎について、あまりよく知らない方もいるのではないでしょうか。
そこで今回は、3世代ごとにどんな活躍をみせたのか紹介しつつ、茶屋四郎次郎を解説していきます。
■茶屋家の歴史
まず、茶屋四郎次郎の生家、茶屋家の成り立ちについて説明します。
茶屋家の始まりは、16世紀半ばに負傷で武士を辞めた中島明延が、京都にて呉服商を営んだことが始まりでした。
また、茶屋は屋号であり、明延の屋敷に作った茶屋に足利義輝がしばしばお茶を飲みに立ち寄ったことが由来となっています。

足利義輝/Wikipediaより
それ以後、中島ではなく茶屋を名乗り始めました。また、明延の子である茶屋清延以来の歴代当主は、習わしとして茶屋四郎次郎を襲名しています。
■初代茶屋四郎次郎、茶屋清延
ここからは、家康を支えた3人の茶屋四郎次郎について紹介していきます。
まず最初は、初代茶屋四郎次郎の茶屋清延です。清延は先ほど紹介した明延の子で、明延が4男で清延が次男だったため、茶屋四郎次郎を通称としました。
清延は若い頃から家康に仕え、主に戦時の道具や武具の調達で活躍しました。また、本能寺の変で織田信長が死亡したことをいち早くキャッチ。堺に滞在していた家康にすぐさま報告した活躍も見せています。
本能寺の変後、家康が伊賀国(現在の三重県西部)を経由して三河国(現在の愛知県東半部)に戻る「伊賀越え」の際、清延は伊賀国を知っている者たちに、金銭で協力交渉を取り行うといった商人の特徴を活かした支援を行いました。

徳川家康/Wikipediaより
清延や家康家臣の服部半蔵や本多忠勝、井伊直政の尽力により、家康は無事に三河国に帰還。清延は、伊賀越えの功績で家康の御用商人となりました。
その後、親交を深めたことで、徳川家の呉服御用を一手に引き受けることになります。
ちなみに、中村勘九郎さんは茶屋清延役で『どうする家康』に出演されます。
■2代目茶屋四郎次郎、茶屋清忠
慶長元年(1596)に清延が亡くなり、その後を継いだのが2代目茶屋四郎次郎の茶屋清忠です。慶長3年(1598)に豊臣秀吉が病死を機に、家康の権力が増大。それに伴い、清忠は京都と大坂の物流の取締役に任命されました。
また、関ヶ原の戦い後には京都の情勢が不安定であることを家康に報告し、それがきっかけで京都の治安維持を職務とした京都所司代が設置されました。清忠は京都町人頭に任命されます。

初代京都所司代・奥平信昌/Wikipediaより
しかし、慶長8年(1603)に跡継ぎを残さないまま、病死しました。
■3代目茶屋四郎次郎、茶屋清次
病死した清忠に子がいなかったため、3代目茶屋四郎次郎となったのは清忠の弟・茶屋清次でした。
清次は、家康の後押しで慶長17年(1612)から朱印船貿易の特権を獲得。以後はベトナムとの貿易で巨万と富を得ました。
さらに、その富で茶道具をコレクションし、寛永の三筆の1人本阿弥光悦に芸術支援を行いました。

本阿弥光悦/Wikipediaより
また、清次は家康にタイの天ぷらをすすめた人物としても知られています。
詳細として、元和2年(1616)、駿府国田中城での鷹狩後に家康は清次を招集。清次に京都や大坂での流行り物を聞いたところ、タイの天ぷらにすりおろしたニラをかけた料理と家康に答えました。
その発言がきっかけとなり、家康はタイの天ぷらを食しました。
その夜に家康が体調不良となり、同年4月に病死したことで、家康の死因はタイの天ぷらという俗説が誕生するきっかけにもなっています。
家康の死後から6年後、清次は38歳の若さで死去。以後の茶屋家は1800年に呉服御用の差し止めを受けた後、明治期になって廃業となりました。
■茶屋家の現在
一時期は角倉家と後藤四郎兵衛家と共に「京の三長者」と呼ばれていた茶屋四郎次郎家。
共に徳川家に仕えていたので、茶屋御三家と言われていたそうです。
現在では本家である茶屋四郎次郎家は途絶え、紀州茶屋家も途絶えています。しかし、尾州茶屋家はまだ存在しており、子孫の方が学校法人茶屋四郎次郎学園を創立。茶屋四郎次郎の名を後世に残されています。
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