勝って驕らないのは比較的容易ながら、負けて腐らないのはなかなか胆力が求められます(というより、そもそも勝つこと自体が非常に難しいのですが……)。
古来「負けぶりにこそ将器が問われる」とはよく言ったもので、往時の武士たちもその真価を顕しました。
そこで今回は江戸幕府の公式記録『徳川実紀(東照宮御実紀)』より、三方ヶ原のエピソードを紹介。
果たして徳川家康(とくがわ いえやす)は、どんな負けっぷりを魅せたのでしょうか。
■浜松城へ逃げ込んだ家康。城門を閉ざさぬ理由は?
……十二月廿二日三方が原のたゝかひ御味方利を失ひ。御うちの軍勢名ある者共あまた討れぬ。入道勝にのり諸手をはげましておそひ奉れば。夏目次郎左衛門吉信が討死するそのひまに。からうじて浜松に帰りいらせ給ふ……時は元亀3年(1572年)12月22日。武田信玄(演:阿部寛)の襲来を遠州三方ヶ原(静岡県浜松市)で迎え撃った徳川家康(演:松本潤)は、ボロボロに撃ち破られてしまいました。
※『東照宮御実紀』巻二
奮戦むなしく、武田軍に惨敗する家康たち。揚洲周延「味方ヶ原合戦之図」
この三方ヶ原の合戦で徳川方は多くの将兵を喪い、夏目吉信(広次。
……その時敵ははや城近くをしよせたれば。早く門を閉て防がんと上下ひしめきしに。 君聞召かならず城門を閉る事あるべからず。跡より追々帰る兵ども城に入のたよりをうしなふべし。また敵大軍なりとも我籠る所の城へをし入事かなふべからずとて。門の内外に大篝を設けしめ。その後奥へわたらせ給ひ御湯漬を三椀までめしあがられ。やがて御枕をめして御寝ありしが。御高鼾の聲門外まで聞えしとぞ。近く侍ふ男も女も感驚しぬ。敵も城の躰いぶかしくやおもひけん……「……御屋形様のお戻りだ!」
※『東照宮御実紀』巻二
命からがら浜松城へ逃げ込んだ家康。
「しかし、そんなことをしたら敵が……!」
「構うな。それより後から逃げてくる味方を全員受け入れる方が優先じゃ」
さすが家康、実に部下思いですね。しかし武田の大軍が城内へなだれ込んで来たら、どのみち味方は全滅です。
それでも家康は考えを変えず、部下に説いて聞かせました。
■武田の大軍を前に高いびき
「良いから門は開けておけ。見ておれ、開けておけば武田は来ぬから」
「合点が行きませぬが、何ゆえでしょうか?」
「敵の立場になって考えてみよ。もし城門が堅く閉ざされていれば、きっと我らが窮地であると見抜いて力押しするだろう」
「はあ」
「逆に門が無防備に開け放たれておれば、城内に何か罠を仕掛けたので誘い込んでいるのではと疑わぬか?」
「なるほど、要するにハッタリですな」
「まぁ、そうなるな」
「しかし、もしそれでも武田が乗り込んで来たら……」
「その時は、いくら門を閉ざそうが防ぎ切れぬじゃろうな。どっちみち無駄ならば、休める内に少しでも休んでおけ」
「ははぁ」

景気よく焚かれた篝火(イメージ)
言うなり家康はハッタリついでか景気づけか、門前にでかい篝火(かがりび)を焚かせ、自身は奥へ入りました。
「腹減った!メシ!」
腹が減っては戦はできぬ。次なる戦いに備えて湯漬け飯をドンブリ三杯も平らげます。
「疲れた!寝る!」
腹が満たされれば眠くなるのは健康な証拠。
よほど疲れていたのでしょうが、それにしても敵の大軍が迫っている中で、大した豪胆ですね。
嘘かまことか家康のいびきは城外にまで響いたと言います。これを聞いた武田の軍勢は罠を警戒。浜松城への攻撃を中止したと言うことです。
■終わりに
以上、三方ヶ原における徳川家康の負けぶりを紹介しました。
よく「あまりの恐ろしさに失禁した」とも言われますが、個人的には豪胆な方が好きです。

浜松城の門楼にて太鼓を打ち鳴らす酒井忠次。月岡芳年筆
また、俗説では高いびきの代わりに酒井忠次(演:大森南朋)が太鼓を打ち鳴らしたとも言われ、こちらも絵になります。
果たして大河ドラマ「どうする家康」ではどのような負けぶりを魅せてくれるのか、今から楽しみですね。
※参考文献:
- 経済雑誌社『徳川実紀 第壹編』国立国会図書館デジタルコレクション
- 小和田哲男『詳細図説家康記』新人物往来社、2010年3月
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan