「どうする家康」では野間口徹さんが演じ、5話「瀬名奪還作戦」では、服部半蔵(演:山田孝之さん)率いる28人の服部党を壊滅にまで追い込みました。
また、半蔵の目の前で、手練れの忍びである穴熊を討ち取る活躍を見せました。
劇中では今川家の忠臣として君臨する長照ですが、マイナーな武将のため、史実ではどのような生き方をしたのかと気になる方もいるかもしれません。
そこで今回は、今川家を支えた長照の生涯をご紹介します。子どもたちのことも紹介しますので、「どうする家康」の予習にも最適な内容となっています。
鵜殿長照のイメージ
■今川義元の甥でもあった長照

今川氏真/Wikipediaより
鵜殿長照は、鵜殿長持と今川義元の妹の間に生まれます。このことからわかる通り、長照は義元の甥で今川氏真(演:溝端淳平さん)の従兄弟にあたります。
また、父の長持は義元の義兄弟。鵜殿家は今川家に重宝されていたことがわかりますね。
それもそのはず。長持は「三州西郡一万石」を有した身分の武将。その功績を今川家に見込まれ、重宝されたと考えられます。さらに、長持は連歌師の宗長や宗牧と親交のあった教養人でもありました。
偉大な父の子である長照は、義元から期待を寄せられていたのは言うまでもありません。
■桶狭間の戦いの前は大高城の守備をしていた

徳川家康/Wikipediaより
永禄3年(1560)の桶狭間の戦いの前哨戦「大高城の兵糧入れ」の際、長照は大高城の守備に当たっていました。大高城は今川軍の最前線に位置しており、織田軍の包囲によって身動きの取れない状態でした。
そのため、長照は城兵たちと草木の実を食べて兵糧不足を凌いだと言われています。
そして、徳川家康が大高城に兵糧を運んだことで、窮地を脱します。その後は、家康と大高城の守備を交代。義元が討ち死にすると、自領に帰りました。
■意外と人望が無かった長照

松平清善/Wikipediaより
桶狭間の戦いの敗戦後、長照は今川家から独立した家康と度々対立しました。ただ、よく戦ったのは家康ではなく、配下の竹谷松平家4代当主・松平清善(まつだいら-きよよし)だったみたいです。
加えて、長照は無作法なことがあり、それが要因となって離反者が相次ぎました。それでも清善と戦い続けましたが、永禄5年(1562)に家康から居城である上ノ郷城を攻撃されます。長照は家康相手に奮戦しました。
しかし、甲賀衆の火計による混乱で、上ノ郷城は落城。最終的に、長照は伴与七郎に討ち取られました。
■長照の子どもたちや鵜殿家縁者のその後

お田鶴の方のイメージ
長照の死後、子の氏長(演:寄川歌太さん)と氏次(演:石田星空さん)は拘束され、家康の妻子(瀬名姫・松平信康・亀姫)との人質交換に用いられました。そして2人は今川家の没落に伴い、永禄11年(1568)に家康に仕えます。
その後、氏長は寛永元年(1624)に76歳で死去。氏次は主君の松平家忠と慶長5年(1600)の伏見城の戦いで戦死しました。
また、長照の妹とされるお田鶴の方(演:関水渚さん)は永禄11年(1568)に家康と戦った末に討ち死に。鵜殿家の者であった西郡局(にしのこおりのつぼね、演:北香那さん)は家康の側室となっています。
■最後に
父の長持と違って、人望の無さが仇となってしまった長照。また、清善に夜襲を仕掛けた際、夜通しで博打をやっていたことを計画がバレたと勘違いして撤退してしまった無能さも露呈していました
長照の死によって鵜殿家は没落したものの、子たちが鵜殿の血筋を残したことは素晴らしいと感じました。今川家に最後まで仕えず、見限った判断力も評価できます。
どうする家康では、長照の最後はどのように締めくくられるのか非常に楽しみですね。
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