今回はその中から、大久保忠佐(おおくぼ ただすけ)を紹介。
「徳川二十将図」より、大久保七郎右衛門(忠世)と大久保次右衛門(忠佐)
劇中では尺の都合により割愛されてしまうかも知れませんが、忠佐も兄に劣らぬ豪傑でした。
■生涯無傷の強運で家康を救った「長篠のヒゲ」
大久保忠佐は天文6年(1537年)、松平氏三代(清康・広忠・家康)に仕えた大久保忠員(ただかず)の次男として誕生します。
弘治元年(1555年)の蟹江城攻めで初陣を果たして以来、大きなもので十数度を超える合戦で武功を立てますが、生涯にわたりかすり傷一つ負わなかった強運の持ち主です。
その強運ゆえか、後世「家康の三大危機」と呼ばれた窮地(三河一向一揆、三方ヶ原の合戦、神君伊賀越え)には必ず居合わせ、家康を救っています。
忠佐の武勇は戦場にあって衆目を引きつけ、三方ヶ原のリベンジとも言える長篠の合戦(天正3・1575年5月21日)では、あの織田信長(おだ のぶなが)さえ感心せずにはいられませんでした。

忠佐の活躍ぶりに目を見張る信長(イメージ)「長篠合戦図屏風」より
……我等が譜代久敷者。金之あげはのてうのはた。大久保七郎右衛門と申而。こくもちが。後に「膏薬侍(こうやくざむらい)」と呼ばれた大久保兄弟の由来。また『寛政重脩諸家譜』にはこんなエピソードもありました。
兄丹て候。あさ紀“のこくもちハ。大久保次右衛門と申而。てうの■■。弟丹て候と仰けれバ。急立帰。此由申けれバ。信長。聞召而。さても家康ハ。よき者をもたれたり。我ハかれらホどの者おバもたぬぞ。此者共ハ。よき可うやくにて有り。敵に盈つたりと付而。は奈れぬと仰けり。……
※大久保忠教『三河物語』より
【意訳】彼らは、我が徳川家に代々仕える忠臣である。金の揚羽蝶の旗印は兄の大久保七郎右衛門(しちろうゑもん。忠世)。黒地丸に白抜き(こくもち。黒餅)が兄で、浅葱(あさぎ)色の方は大久保次右衛門(じゑもん、治右衛門。忠佐)という弟である。
その活躍を見届けた信長は「さても家康はよき家臣を持たれたものだ。我が織田家に彼らほどの者はおらぬ」と絶賛した。続けて「彼らはよき膏薬(かうやく。塗り薬)じゃ。敵に『みつたり』とついて離れぬわい」とのこと。
……天正三年長篠に軍を出したまふのとき、仰によりて兄忠世と列して両手にわかれ、麾下の鉄炮をつかさどり、かはるがはるこれを発して大に勝頼が軍を破る。このとき織田右府忠佐が進退衆にすぐれたるを見て、髯多き武者は誰なるやとはしむ。三河の士大久保治右衛門忠佐といふものなりとこたふ。右府其勇武を歎美す。のち東照宮右府の軍に会したまふごとに、長篠の髯はしたがひたてまつるやいなやとゝはる。……あまり人に懐かなそうな信長が、忠佐にあったらどんな顔で出迎えたんでしょうね。
※『寛政重脩諸家譜』巻第七百七 藤原氏(道兼流)大久保
【意訳】長篠の合戦において、大久保兄弟(忠世・忠佐)は二手に分かれて鉄砲足軽を率い、交代に撃つことで武田勝頼(たけだ かつより)の軍勢を打ち破った。
これを見た信長が忠佐の采配ぶりを見て「あのヒゲもじゃの武者は誰か。進退衆にすぐれたり」と称賛。以来いたく気に入られたようで、その後も家康が信長に会うたび「あの長篠のヒゲは来ておるか?」と尋ねられたという。
■終わりに
その後も武田征伐や小牧・長久手の合戦、天下分け目の関ヶ原でも武功を重ねた大久保忠佐。ついには駿河国沼津2万石の大名となります。

「徳川二十将図」より、大久保次右衛門忠佐。伝狩野永納筆
しかし跡継ぎには恵まれず、二人の男児(竹丸、大久保忠兼)は相次いで夭折。このままでは無嗣改易(むしかいえき。跡継ぎがいないため御家断絶・所領没収)は免れません。
「頼む彦左衛門。そなたに跡を継いで欲しいのじゃが……」
忠佐は弟の彦左衛門(ひこざゑもん)こと大久保忠教(ただたか)に家を継いでくれるよう頼みましたが、彦左衛門はこれを辞退。
「それがしの奉公によらずして過分の禄を得るのは不忠というもの。そもそも禄は天下のものすなわち上様のものなれば、惜しまず返上するのが道理でしょう」
「この頑固者め!」
けっきょく跡継ぎがいないまま慶長18年(1613年)9月27日に忠佐は世を去り、沼津2万石は召し上げられてしまったのでした。
果たしてNHK大河ドラマ「どうする家康」には登場してくれるのでしょうか。
※参考文献:
- 『寛政重脩諸家譜 第四輯』国立国会図書館デジタルコレクション
- 『日本戦史材料 第貮巻 三河物語 全』国立国会図書館デジタルコレクション
- 谷口克広『信長と家康 清州同盟の実体』学研プラス、2012年1月
- 小川雄ら編著『図説 徳川家康と家臣団』戎光祥出版、2022年10月
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