■「検地」の意義

小学校の教科書で「豊臣秀吉は検地・刀狩りを行った」と、ざっくり教わったことを覚えている人も多いでしょう。

このうち、刀狩りは「武装解除」として考えるとすぐに理解できますが、一方の検地の方は、少し専門的な知識がないと、その意義が理解しにくいところがあります。


豊臣秀吉による「太閤検地」の歴史的意義は?荘園制度の解体から...の画像はこちら >>


豊臣秀吉坐像

もともと戦国大名の財源といえば、領地の農民から納められる年貢が主でした。

そこで領主は自分の領地内に存在する農地について、それぞれの生産高と、年貢を納めるいわば「納税者」が誰なのかをきちんと把握しなければならず、それで行われたのが検地だったのです。

ところが、ひとつ大きな問題がありました。当時は各地の田畑が荘園制度の名残を引きずっており、権利関係が複雑化していたのです。

■荘園制度は複雑怪奇

荘園制度というのはある種の脱税システムで、田畑の名義を貴族や寺社にすることで、実際にその土地を耕作している農民が課税を逃れるというものでした。

豊臣秀吉による「太閤検地」の歴史的意義は?荘園制度の解体から身分制度の確立まで【前編】


よって、耕作者と所有者が一致しないだけならともかく、その間に複数人の仲介者が存在していたりして、複雑怪奇な状態になっていたのです。

どれくらい複雑怪奇だったかというと、領主ですらその全貌把握が難しかったのです。よって、秀吉が行うよりも前の検地は単なる自己申告によるもので、虚偽の内容も多かったといわれています。

豊臣秀吉は農民の出なので、こうした状況をよく知っていました。そのため、国土をきちんと支配するためにも、正確な検地を行わなければならないことも分かっていたのです。

実際、彼は信長に仕えていたころから、領地を得るたびに検地をきちんと実施していました。



■太閤検地のスタート

こうして行われたのが、秀吉が天下統一を果たした後の1594年の太閤検地です。


統一された検地尺にもとづいて行われたもので、実はそれまでの日本では度量衡が統一されていなかったことから、秀吉は日本史上初めて、検地の際の単位の統一を行ったのです。

豊臣秀吉による「太閤検地」の歴史的意義は?荘園制度の解体から身分制度の確立まで【前編】


太閤検地では6尺3寸を1間とし、1間四方を1歩、30歩を1畝、10畝で1段としました。また容積についても、1石は10斗、1斗は10升(1升は約1.8リットル)と定めます。さらに、太閤検地で使う枡も京枡にするものとしたのです。

さらに、検地で不正が行われないように、豊臣政権から派遣された検地奉行が、現地で直々に調査することになりました。

【後編】では、太閤検地のその後の影響や、検地以外に秀吉が行った天下統一政策について、さらに深堀りして見ていきましょう。

参考資料
『オールカラー図解 流れがわかる戦国史』かみゆ歴史編集部・2022年



日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

編集部おすすめ