今回の記事でご紹介するのは、平安時代の恋愛の風習のひとつ「後朝(きぬぎぬ)」というものです。なんとなく言葉は聞いたことがあっても、いまいちその意味を理解していないという方も多いのではないでしょうか。


今も昔も、誰かを好きになる気持ちは同じ。しかし、平安時代には今から考えると驚くようなこともたくさんあります。

「後朝」には、いったいどのようなマナーがあったのでしょうか?

色々なマナーや習慣があった、平安時代の恋愛の風習「後朝(きぬ...の画像はこちら >>


■平安時代の恋愛とは?

現代の視点から見るとびっくりしてしまうかもしれませんが、平安時代の恋愛は「妻問婚(つまどいこん)」という通い婚(かよいこん)が一般的。男女が一緒に暮らすのではなく、日が暮れたころ男性が女性のもとを訪れ、一夜をともにし、朝になったら男性はまた自分の家へ帰宅しなければなりませんでした。

この「一夜をともにした男女が翌朝別れる」ことを「後朝(後朝の別れ)」と言いました。

■「後朝(後朝の別れ)」にはマナーが色々

まず、いくら好きな人とずっと一緒にいたいからといって、長居はできませんでした。翌朝、まだ空が暗いころに男性は家へ帰っていました。また、男性は家に帰ったあともやることがあります。それは女性に文を送るということ。これは「後朝の文」と呼ばれ、そこに添えられている歌を「後朝の歌」と言います。

「後朝の文」はとても重要なものと考えられていたため、女性もそれを待っています。女性をいつまでも待たせるわけにはいきませんから、男性もなるべく早めにこの文を出すのがマナーだったとか。




■百人一首にも、源氏物語にもみられる後朝の歌

後朝の歌は、さまざまな文学のなかにもみられます。たとえば「百人一首」の52番・藤原道信朝臣の「あけぬれば 暮るるものとは 知りながら なほ恨めしき 朝ぼらけかな」という歌があります。

これは「夜が明ければまた日が暮れる。そしてまたあなたと遭える。それを知っていながら、まだあなたと別れなければならない夜明けが恨めしい」という意味。後朝の別れのつらさがひしひしと伝わってくるのではないでしょうか。

また、『源氏物語』にも、光源氏が「見てもまた逢ふ夜まれなる夢のうちにやがてまぎるる我が身ともがな」という歌を詠んでいます。これは、「こうして愛し合うことがこの先なかなか訪れないなら、こうしてお逢いしている夢の中にわが身を紛れさせてしまいたい」という意味で、彼が義母と逢瀬をした後に詠まれました。

光源氏の、甘く痛烈な思いが伝わってくるのではないでしょうか。

いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも日本文化や歴史の面白さに興味を持つきっかけになれば嬉しいです。

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