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【朝ドラ らんまん】要潤演じる田邊彰久のモデル!東京大学理学部の初代教授・矢田部良吉の生涯②
良吉は、新しい時代の明治にあって、より開化的な発想の持ち主でした。朝ドラでも描かれていますが、植物学だけでなく、西洋詩の影響を強く受けていたようです。
当時の日本では、まだ和歌や俳句、漢詩などの定型詩が強い影響を持っていました。
一方で幕末ごろから自由な詩が日本で詠まれるようになり、明治に入って西洋詩が漢詩に和訳される形で日本に紹介されています。
やがて良吉らは、日本に新しい詩を導入すべく動き始めました。
明治15(1882)年、良吉は共に留学した外山正一や井上哲次郎とともに『新体詩抄』を上梓します。
同書は、日本の詩歌の花鳥風月や叙情とは違って、思想的や抽象的な内容を含んだ詩を掲載。訳詩14編、創作詩5編という内容でした。
その半分にあたる9編が、良吉によって製作。そのうち6編が英語の翻訳詩、3編は創作詩となっています。
良吉らは、西洋詩である「poetry」を日本に翻訳して模倣することで、従来の日本の詩歌とは違った新しい韻文の確立を目指していました。
朝ドラでは、良吉がモデルの田邊教授がシェイクスピアの『ハムレット』を教授室に置いていましたね。
良吉自身、ハムレットの一節を試訳して『新体詩抄』に寄稿しています。
このとき、良吉はペンネームを「尚今居士」と言う和風なものを使っていました。

外山正一。文部大臣や東京大学総長を務めた。
■漢字を廃止?急進的過ぎたローマ字採用運動
良吉らは、西洋詩の導入に留まるつもりはありませんでした。
むしろ日本古来の漢字や仮名を廃止して、日本語の文字としてローマ字を採用しようと画策・運動していたのです。
明治18(1885)年には、「羅馬(ローマ)字会」を設立。良吉は幹事となって運動の中心にあり続けます。
明治20(1887)年には『Romaji zasshi(羅馬字雑誌)』を編集。全てローマ字で書かれた雑誌の発刊を成し遂げました。
現代の学校で習うローマ字の歴史には、実は矢田部良吉による運動が関わっていたのです。

ウィリアム・シェイクスピアの『ハムレット』。良吉も愛読していたと思われる。
■良吉、東京高等女学校の校長に就任する
良吉の活躍は、教育業界にまで及んでいくこととなります。
明治18(1885)年、第1次伊藤内閣において、森有礼が初代文部大臣に就任。かつて森の下で働いた良吉の運命も大きく動き始めます。
森は文部大臣として教育行政の改革に着手。翌明治19(1886)年に東京高等師範学校(東京教育大学の前身)を創立して教育の総本山とします。
教育行政の運営において、森が特に頼りとしたのが良吉でした。
良吉は特に女子の高等教育の拡大を求めており、かねてから演説においてもそれを訴えていました。
明治より前の江戸時代は、儒教的な考えが導入されています。いわば男尊女卑的な「夫唱婦随」関係が求められていました。
しかし良吉は時代錯誤だとしてこれを批判。夫婦の対等な相補関係を構築すべしと説きます。
良吉の教育観の中には、女性に欧米的な良妻賢母を求めていく思想があったようです。
良吉が本格的に女子教育に携わったのは、東京高等女学校においてでした。
明治15(1882)年、政府は東京女子師範学校の附属高等女学校を設立。明治19(1886)年2月には、同校を文部省直属の官立校に定めて東京高等女学校としていました。
良吉は東京高等女学校の校長を拝命。女子教育推進の立場として活動していく事となります。

東京女子師範学校。付属校として設置されたのが女学校であった。
■先進的な女子教育、国の基事件によって頓挫する…
明治20(1887)年、良吉は大日本教育会において、女子教育の重要性において演説。『東洋学芸雑誌』に掲載されるほど、周囲から注目されていました。
明治22(1889)年には、良吉が中心となって女子教育の雑誌『國の基(くにのもとい)』を発刊。広く支持を集めるべく運動しています。
しかし良吉の西洋主義的な考えは、周囲からあまり理解されていなかったようです。
同年4月、『改進新聞』において小説「濁世」が掲載。良吉の私生活を揶揄しつつ、女学校の腐敗を糾弾していました。
良吉は「濁世」の連載に激怒して新聞社を名誉毀損で訴え、新聞社から謝罪文を出させています。
さらに同年、教頭の能勢栄が『國の基』で「文学士か或いは理学士以外の男性には嫁ぐべきではない」と論述。女学校に対する批判を巻き起こします。
翌明治23(1890)年、良吉と能勢らは免職。東京高等女学校も廃止されることとなりました。
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