その残党を根絶やしにせんと躍起になる織田信長(演:岡田准一)。一方で、優れた家臣を召し抱えようと手を尽くしたのが「我らが神の君」徳川家康(演:松本潤)でした。
歌川国綱「天目山勝頼討死ノ図」
今回は家康に召し抱えられた武田遺臣の一人、川窪信俊(かわくぼ のぶとし)を紹介。
NHK大河ドラマ「どうする家康」には登場しないでしょうけど、実に興味深いエピソードです。
■親の遺徳を子に報ゆ
「殿、お引き合わせしたき者がございます」
家康に声をかけたのは、家臣の篠瀬某(ささがせ なにがし。実名不詳)。
「以前、それがしが殿のお怒りを買ってしまい、甲斐国へ逃亡した時のことを覚えておいででしょうか」
「あぁ、そんな事もあったな」
甲斐国へ逃れた篠瀬某を受け入れてくれたのが武田信実(たけだ のぶざね)。信玄の弟です。

「徳川殿へのお土産に」信実から贈られた鷹(イメージ)
後に家康の怒りがとけて帰国を許された際、信実は「徳川殿は鷹狩りをお好みだそうだから、これを土産に持って行くがよい」と、二羽の鷹をくれたのでした。
そんな信実は長篠の戦い(天正3・1575年5月21日)で討死してしまうのですが、信実の子・武田信俊が匿われているとのこと。
「それはよい。鷹の恩返しも兼ねて、さっそく召し抱えよう」
という訳で、父の遺徳によってとり立てられた信俊は、甲斐国川窪に所領を与えられます。
これを機に、苗字を川窪と改めた信俊。武田の誇りに恥じぬよう、家康の甲信地方平定(天正壬午の乱)に武勇を奮うのでした。
■数々の合戦で武功を重ねる
天正壬午の乱とは、天正10年(1582年)6月に信長が本能寺で横死すると、甲信地方が大混乱に陥った一連の戦乱です。
信長に抑圧されていた武田残党はもちろん、北条や上杉といった周辺勢力も黙ってはいません。
そんな中、命からがら堺から逃げ帰った家康は、さっそく甲信地方の平定に乗り出しました。
信俊は柴田康忠(しばた やすただ。家康家臣)に従って佐久・小諸・岩尾方面を転戦します。

一番槍を果たす信俊(イメージ)
一番乗り、一番槍、そして敵将の首級を上げる武勲を重ねた信俊。さすがは武田の猛者よと称えられました。
その後も天正12年(1584年)に家康が羽柴秀吉(演:ムロツヨシ)と争った小牧・長久手の戦いで首級九つ(内三つは自身)を上げます。
更に天正18年(1590年)の小田原北条征伐では、平岩親吉(演:岡部大)の下で武蔵岩槻城を攻め、ここでも敵将の首級を上げました。
ついでに首級をもう一つとって、味方に譲ってやる余裕まで見せたそうです。
かくして徳川家臣団の精鋭として活躍した川窪信俊。天正19年(1591年)の九戸一揆鎮圧、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦い、そして慶長19~20年(1614~1615年)大坂の陣と武功を重ねました。
そして戦国乱世も過ぎ去った寛永16年(1639年)2月14日、76歳で世を去ったのでした。
※だから逆算して、永禄7年(1564年)生まれとなります。
■終わりに

月岡芳年「勝頼於天目山遂討死図」
【武田家略系図】以上、信玄の甥っ子・川窪信俊について紹介してきました。
……武田信虎(信玄父)―川窪信俊―川窪信雄(のぶお)―川窪信貞ー川窪信令(のぶとき)―川窪信喜(のぶよし)―川窪信胤(のぶたね)―川窪信村―川窪信親ー川窪信徳(のぶやす)……
※『寛政重脩諸家譜』巻第146 武田 武田支流(清和源氏義光流)より
嫡流こそ絶えてしまった武田家ですが、信俊はじめ少なからぬ者たちが武田の血統と誇りを後世に受け継いでいきます。
ちなみに最後の信徳については不明(恐らく系図編纂時に存命のため、略伝なし)ですが、その父・川窪信親は第10代将軍・徳川家治(いえはる)に仕えたそうです。
その後も永く続いて欲しいものですが、今後詳しく調べたら、また紹介しましょう。
※参考文献
- 高柳光寿ら編『新訂 寛政重脩諸家譜 第3』平文社、1964年8月
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan