昔から、一宿一飯の恩義と申します。一度お世話になった以上、その恩義に報いてこそ人の道というもの。


今回は戦国時代の浪人・森川助右衛門(もりかわ すけゑもん)を紹介。彼が今川氏真(演:溝端淳平)に仕官しようと、はるばる遠江国までやってきた時のことでした。

■「そなたは浪人ゆえ、早く逃げよ」

義によって助太刀致す!飯尾連龍(渡部豪太)の恩に報いた森川助...の画像はこちら >>


仕官を求めやってきた助右衛門(イメージ)

「……左様か、それはご苦労なされたな」

助右衛門は曳馬城主の飯尾連龍(演:渡部豪太)、またの名を豊前守致実(ぶぜんのかみ むねざね)に迎えられました。

「今川様は人材を求めておいでじゃから、折を見て森川殿もご縁に与れようぞ」

しかし連龍は三河の松平元康(演:松本潤。徳川家康)と内通しており、やがて発覚してしまいます。

「豊前守、神妙にいたせ!」

館にいたところを完全包囲されてしまった連龍は、助右衛門に言いました。

「そなたは当家の者ではない故、早く逃げられよ。敵も無関係のそなたまでは討つまい」

今川様への仕官、口添えできず済まなんだのぅ……そんな連龍に、助右衛門は答えます。

「ひとたびご縁に与った飯尾様を見捨て、どこで生きていくことが出来ましょうか。たとえ冥途の果てまでも、飯尾様に助太刀申す!」

「かたじけない!」

かくして同志となった連龍と助右衛門は、門を開き撃って出ました。

そして奮戦の末、敵数名を討ち取り力尽きたということです。時に永禄7年(1564年)のことでした。




■助右衛門の子孫たち

義によって助太刀致す!飯尾連龍(渡部豪太)の恩に報いた森川助右衛門の最期【どうする家康 外伝】


連龍と共に討死した助右衛門(イメージ)

●某 助右衛門

はじめ今川氏真に仕へむがために、その臣飯尾豊前守致実がもとにあり。永禄七年致実東照宮に志を通じたてまつるにより、氏真怒りてこれを誅伐せしむ。こゝにをいて、兵士来りて飯尾が宅を囲む。ときに豊前守助右衛門にいふ、汝は浪人なれば速に他邦にさるべしと、再三に及ぶといへどもきかず。我こゝをさりていづくにゆかむや、ともに出て戦はむとて、つゐに門をひらき突ていで、敵数輩をうちて戦死す。

※『寛政重脩諸家譜』巻第四百十一 宇多源氏(佐々木支流)森川

以上、森川助右衛門のエピソードを紹介してきました。仕官こそ叶わずとも、武士として立派な最期だったと言えるでしょう。

そんな助右衛門の子・森川照道(てるみち。助右衛門)は父の討死から5年後の永禄12年(1569年)に徳川家に仕官しました。

以来代々徳川家に仕え、助右衛門の遺徳を後世に伝えたということです。

【森川家略系図】

堀部定泰-森川定兼-某(助右衛門)―照道ー照憲―照方-照重-政記(まさとき)-政方-政明-政光-政之―政寧……

※『寛政重脩諸家譜』巻第四百十一 宇多源氏(佐々木支流)森川

天下を争った大名クラスの英雄たちには敵わずとも、自らの意志と力で生き抜いた者たちもまた、歴史に埋もれた英雄と言えるでしょう。

当然NHK大河ドラマ「どうする家康」には影も形も見えませんでしたが、こうした”無数の助右衛門たち”に思いを馳せるのも、悪くないかと思います。


「あのモブキャラ、どんな人生を歩んできたんだろう」

「もし自分がこの時代のこの場面にいたら、あそこで駆けずり回っている彼のようだったろうか」……とか何とか。

※参考文献:

  • 『寛政重脩諸家譜 第三輯』国立国会図書館デジタルコレクション

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