死出の旅まで付き従った信長の小姓織田信長(演:岡田准一)の小姓として、その覇業を支える森乱こと森成利(もり なりとし、いわゆる森蘭丸)。
森乱 もり・らん
[大西利空 おおにしりく]
織田家重臣・森可成の息子で、長可の弟。その聡明さと美貌を認められ、若くして織田信長の近習となる。本能寺の変の際、あるじと共に炎に包まれ、非業の最後を遂げることに。
※これまでは、森蘭丸と呼称されることが多かった。
※NHK大河ドラマ「どうする家康」公式サイト(登場人物)より
果たして彼がどんな生涯をたどるのか、まとめてみました。大河ドラマの予習や復習にいかがでしょうか。
■森成利の生涯を駆け足でたどる
落合芳幾「太平記英勇傳 森蘭丸長康」。紹介文(青線部分)に「勇ハ義秀親衡を欺き容貌源氏業平尓彷彿」とある。朝比奈義秀らに劣らぬ武勇と、光源氏らを思わせる美貌をもっていたらしい。なお、諱の長康は後世の創作と考えられる。
森成利は永禄8年(1565年)、信長の家臣・森可成(もり よしなり)と営(えい。林通安の娘)の三男として誕生しました。
【森蘭丸じゃないの?】幼名は乱法師(らんほうし)、親しい人たちが略して森乱と呼んでいたのでしょう。
なお有名な森「蘭丸」について、当人や周囲の人々が呼称した(名乗ったり書いたりした)記録はなく、『石山本願寺日記』の「森お蘭」という記述に幼名に多い「~丸」を加えた呼び名が広まったようです。
「乱」よりも「蘭」の方が優雅で美しいから、信長の小姓にふさわしかろうと後世の軍記物語などに受け容れられたものと考えられます。一方、当人たちは名前を書く時に簡単な「乱」を好んだのでしょうか。
例外として大久保彦左衛門『三河物語』では、森成利を「森之お覧」と書いていました。これはただ漢字をど忘れしたのかもしれません。
ひとまずここでは「乱法師」が一応の正式名称で、周囲からは略して「森乱」と呼ばれていたものと考えます。
兄弟について

歌川豊宣「新撰太閤記」より、信長に近侍する森蘭丸。
森成利の兄弟姉妹は以下の通りです。
- 長男:森可隆(よしたか)……元亀元年(1570年)朝倉攻めで討死。
- 次男:森長可(ながよし)……天正12年(1584年)小牧・長久手合戦で討死。
- 三男:森成利(なりとし)
- 四男:森長隆(ながたか)……天正10年(1582年)本能寺の変で討死。
- 五男:森長氏(ながうじ)……天正10年(1582年)本能寺の変で討死。
- 六男:森忠政(ただまさ)……寛永11年(1634年)初代美作津山藩主として死去。
- 長女:関成政(せき なりまさ)室
- 次女:青木秀重(あおき ひでしげ)室
- 三女:木下勝俊(きのしだ かつとし)室
信長の小姓として活躍『兼山記』によると、乱法師こと森成利が信長に仕えたのは13歳となった天正5年(1577年)5月。弟の森坊丸(ぼうまる。長隆)や森力丸(りきまる。長氏)と共に信長のそば近く奉公します。
利発であったことから、石山本願寺との和睦交渉に立つなど外交でも活躍。天正9年(1581年)には近江国に知行500石を与えられました。
『信長公記』によれば天正10年(1582年)3月に武田勝頼(演:眞栄田郷敦)が滅亡した後、兄の森長可が信州川中島へ領地替えとなった後を継いで美濃岩村城主に。
『寛永伝』の記述だとその所領は5万石、信長による寵愛と厚遇が判ります(なお、成利自身は現地に行かず、長可の家老であった各務元正が城代を務めました)。
本能寺の変

延一「本能寺焼討之図」より、信長の危機に駆けつける森蘭丸。
しかし天正10年(1582年)6月2日。
森成利は弟の長隆・長氏と共に力戦、信長を守って壮絶な最期を遂げたのです。時に成利18歳、長隆17歳、長氏16歳という若さでした。
■終わりに
兄弟三人は兄・長可が建立した可成寺(かじょうじ。岐阜県可児市)に葬られ、今なお人々に慕われています。
果たして大河ドラマの「森乱」はどんな活躍を魅せてくれるのか、そして弟たちも登場してくれるのか、期待したいですね!
※参考文献:
- 谷口克広『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館、2010年11月
- 谷口克広『信長の親衛隊 戦国覇者の多彩な人材』中公新書、1998年12月
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