彼には石川康長(やすなが)・石川康勝(やすかつ)・石川康次(やすつぐ)などの息子たちがいました。
※『寛政重脩諸家譜』より。ほか史料によって石川成綱(なりつな)・石川政令(まさよし)・石川定政(さだまさ)がいたとも言われます(諸説あり)。
今回は石川数正の息子たちから石川康勝を紹介。果たして彼はどんな生涯をたどったのでしょうか。
■父と共に秀吉へ寝返る
勝千代が仕えた於義丸改め結城秀康(画像:Wikipedia)
石川康勝は生年不詳、その幼名は勝千代(かつちよ)と言いました。
※兄の康長が天文23年(1554年)生まれなので、康勝はそれ以降の誕生と考えられます。
元服して石川数矩(かずのり。員矩)と改名。後に家康から康の字を拝領して康勝と改めました(便宜上、本稿では康勝で統一)。
※また文献によって石川貞矩(さだのり)と表記ゆれがあるものの、これは員を読み間違えたものでしょう。
通称は肥後守、これは朝廷から正式に任官したものではなく私称(官途名)です。
天正12年(1584年)に家康の次男・於義丸(おぎまる。
翌天正13年(1585年)に父が家康の元を去り、秀吉に寝返ると康勝もそのまま秀吉に仕えます。
■豊臣政権での活躍

せっかく築き上げた伏見城は、慶長大地震で崩壊してしまった。月岡芳年筆
天正18年(1590年)には秀吉が天下を統一。石川父子の読みは正しかったと言えるでしょうか。
文禄元年(1592年)に秀吉が朝鮮遠征(文禄の役)の兵を起こすと、前線基地である名護屋城へ移りました。
翌文禄2年(1593年)に父が亡くなると、その遺領10万石のうち信濃国安曇郡1万5千石を受け継ぎます。
やがて朝鮮の戦況が思わしくなかったためか、康勝も兵を率いて渡海。京城(現代のソウル)へ遠征しました。
文禄3年(1594年)に帰還した康勝は、秀吉が隠居所として築城していた伏見城(指月伏見城)の普請にとりかかります。
果たして慶長元年(1596年)に完成した伏見城ですが、その直後に慶長大地震が発生。
■秀吉の死により家康へ帰参するも……

関ヶ原の合戦(上田城攻め)では、老獪な真田昌幸に翻弄されてしまった(画像:Wikipedia)
さて、慶長3年(1598年)に秀吉が亡くなると、豊臣政権内で派閥抗争が勃発。このタイミングで康勝は家康に帰順し、石田三成(いしだ みつなり)らと争います。
慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦では家康の嫡男・徳川秀忠(ひでただ)率いる別働隊に参加。
中山道を進撃したものの、信州上田城で真田昌幸(さなだ まさゆき)に足止めを食らい、とうとう決戦には間に合いませんでした。
家康によって兄ともども所領を安堵されて康勝ですが、秀吉の遺児である豊臣秀頼(ひでより)とも親しくしていたようです。
慶長18年(1613年)8月には豊国大明神(秀吉を祀る神社)へ秀頼の代参を任されており、よほどの信頼関係があったことをうかがわせます。
しかしそれが原因か、同年10月に兄が所領隠し(≒脱税)容疑で改易処分にされると、康勝も連帯責任で改易されてしまいました。
一説には大久保長安(おおくぼ ちょうあん/ながやす)事件の連座とも言われています。
■大坂の陣で壮絶な最期

戦国ファンならみんな大好き?昌幸の次男・真田信繁(画像:Wikipedia)
かくして浪人となってしまった康勝は、慶長19年(1614年)に家康が豊臣討伐(大坂冬の陣)の兵を挙げると、兄と共に秀頼の加勢に駆けつけました。
大坂城に立て篭もった康勝は、松平忠直(まつだいら ただなお。
この事故で康勝も負傷してしまい、これを内応の合図と勘違いした寄手が一気に攻めて来ました。
しかし城方の守りは堅く、奮戦の末にこれを撃退。何とか一矢報いたのでした。
康勝はじめ諸将の働きが奏功して、ひとまず停戦に持ち込んだ豊臣方。しかし何やかんやで大坂城の堀を埋め立ててしまった徳川方は、翌慶長20年(1615年)に再び攻め込んで来ました。
これが後世に伝わる大坂夏の陣。もはや後のない康勝らは、決死の覚悟で挑みます。
5月7日、真田信繁(さなだ のぶしげ。真田幸村)の寄騎として天王寺口の戦闘に参加。敵味方入り乱れる中で壮絶な最期を遂げたということです。
■終わりに

石川兄弟が茶の湯を学んだ古田織部(画像:Wikipedia)
以上、石川康勝の生涯をたどってきました。
ちなみに康勝は茶人・古田織部(ふるた おりべ)に茶の湯を学んでおり、死の直前4月22日に兄と共に免許皆伝を受けています。
たとえ死を覚悟していても、茶の湯に安らぎを求めた康勝。激動の日々を生き抜く中で、茶を点てるひとときはかけがえのないものだった事でしょう。
果たしてNHK大河ドラマ「どうする家康」では、どんな活躍を魅せてくれるでしょうか。今から楽しみですね!
※参考文献:
- 『寛政重脩諸家譜 第一輯』国立国会図書館デジタルコレクション
- 高柳光壽ら『戦国人名辞典』吉川弘文館、1963年2月
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