北は上杉景勝(うえすぎ かげかつ)、東は北条氏政(ほうじょう うじまさ)、そして西は徳川家康(とくがわ いえやす)。強豪たちの狭間でもみくちゃにされながら、信州上田の孤塁を守り続けた真田昌幸(さなだ まさゆき)。


かつて「信玄の小脇指(懐刀)」と呼ばれた稀代の謀将で、生涯において二度までも徳川の大軍を翻弄するのでした。

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真田昌幸(画像:Wikipedia)

そんな昌幸の息子と言えば、家康に仕えて家名を存続させた長男の真田信幸(のぶゆき。信之)と、家康に最期の決戦を挑んだ真田信繁(のぶしげ。幸村)が有名です。

しかし昌幸には、彼らの他にも7人の子供たちがいました。今回はあまり歴史ファンに顧みられる事のない真田昌幸の息子・娘たちを紹介したいと思います。

■5人の娘たちをどこへ嫁がせる?

真田信幸(吉村界人)・真田信繁(日向亘)だけじゃない!真田昌幸(佐藤浩市)の子供たちを一挙紹介!【どうする家康】


真田信幸(画像:Wikipedia)

まずは真田昌幸の子供たちをすべて並べてみましょう。

長男・真田信之

次男・真田幸村(信繁)

<※嫡子はこの2人だけ。後は庶子>長女・小山田壱岐茂誠の妻

次女・保科肥後守正光の室

三女・瀧川三九郎一積が妻

四女・真田長兵衛幸政が妻

三男・真田昌親

四男・真田信勝

五女・妻木彦右衛門重直が妻

※『寛政重脩諸家譜』巻第654真田(滋野氏)

小山田茂誠(おやまだ しげまさ)は武田旧臣の甲斐国衆。

保科正光(ほしな まさみつ)は武田旧臣の信濃国衆。

瀧川一積(たきがわ かずあつ)は織田旧臣・瀧川一益(かずます)の孫。

真田幸政(さなだ ゆきまさ)は昌幸の甥(弟・真田信尹の子)。


妻木重直(つまき しげなお)は美濃国衆で徳川家臣。

本拠地の信濃を中心として、手広く婚姻関係を固めていったのが分かりますね。

さて、それでは三男の真田昌親(まさちか)と四男の真田信勝(のぶかつ)について、それぞれ見ていきましょう。



■真田昌幸の三男・真田昌親

内匠 母は某氏。

三男孫七郎信親がとき別に家を興し、其男蔵人信弘宗家の養子となるにより家たゆ。その系図は下にみえたり。

※『寛政重脩諸家譜』巻第654真田(滋野氏)

天正11年(1583年)生~寛永8年(1632年)没

母親は不詳、通称は内匠(たくみ)。信濃国内村郷平井村(長野県上田市)に住まい、慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦では長兄・真田信之と共に徳川家康率いる東軍に味方しました。

息子が三人以上いたらしく、三男の真田信親(のぶちか)は元禄7年(1694年)に分家を興し、本家の真田幸道(ゆきみち)より知行2,000石を拝領します。

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真田氏略系図

信親の養子であった真田信弘(のぶひろ。実父は真田信就)が本家の幸道に養子入りしたため、家は絶えてしまったということです。

あんまり本人の説明がありませんでしたね。
名前の昌が父親から受け継いだとして、親の字は誰からとったのでしょうか。改めて調査したいと思います。



■真田昌幸の四男・真田信勝

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戸田半之丞と刃傷沙汰に及ぶ左馬助(イメージ)

左馬助  母は某氏。

慶長十四年九月江戸にをいて戸田半之丞勝興と争論し、つゐに刃傷にをよびて逐電す。妻は牧野讃岐守康成が女。

※『寛政重脩諸家譜』巻第654真田(滋野氏)

生年不詳~慶長14年(1609年)9月没(異説あり)

母親は不詳、通称は左馬助(さまのすけ)。おおむね昌親と行動を共にしたものと考えられます。

慶長10年(1605年)2月、江戸幕府の第2代将軍・徳川秀忠(とくがわ ひでただ。家康嫡男)が上洛する際に大番組(おおばんぐみ。親衛隊の一組織)として供奉しました。

慶長14年(1609年)9月、江戸で同僚の戸田勝興(とだ かつおき)と口論に及び、ついカッとなって斬り殺してしまいます。

この時の返り傷で落命したとも、逐電して消息を絶ったとも言われますが、詳しいことは伝わっていません。


なお、正室には家康古参の忠臣・牧野康成(まきの やすしげ)の娘を娶っていますが、事件後(殺害?逐電?)は斉藤信秋(さいとう のぶあき。久右衛門)と再婚したそうです。

■終わりに

真田信幸(吉村界人)・真田信繁(日向亘)だけじゃない!真田昌幸(佐藤浩市)の子供たちを一挙紹介!【どうする家康】


戦国ファンなら知らぬ者はいない?真田信繁。登場しない弟たちの分まで大暴れして欲しい(画像:Wikipedia)

以上、真田昌幸の子供(庶子)たちを一挙に紹介してきました。恐らくNHK大河ドラマ「どうする家康」に登場することはないでしょう。

それでも「画面のどこかにいるかも知れない」「父や兄たちの側にいるあの若者がそうかも知れない」と考えながら観ることで、物語がより深く楽しめるかも知れません。

※参考文献:

  • 高柳光寿ら編『新訂 寛政重修諸家譜 第11』平文社、1965年5月
  • 柴辻俊六『真田昌幸』吉川弘文館、1996年7月

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