みなさんは、江戸時代の「食」と言えば何を思い浮かべるでしょうか?さまざまなものがあると思いますが、今回は「魚」に焦点をあててみたいと思います。現在でも、日本の台所といえば少し前までは築地市場、今では豊洲市場が有名だと思います。
江戸時代には、日本橋の魚河岸(うおがし)がにぎわいを見せていました。

今回の記事では、そんな日本橋の魚河岸に迫ってみたいと思います。

江戸の食文化を支えた日本橋の「魚河岸」ってどんなところだった...の画像はこちら >>


江戸八景 日本橋の晴嵐 画:渓斎英泉 国立国会図書館デジタルコレクションより

魚河岸(うおがし)は、魚市場や、魚市場のある河岸を指します。古くは、今回ご紹介する日本橋にあった魚河岸のことを指しています。

日本橋の魚河岸は、江戸時代初期から大正12年(1923年)までありました。1923年の関東大震災をきっかけに、約300年の歴史に幕を下ろし、築地市場へ移転しました。魚河岸の始まりは、江戸の近くの海(東京周辺だけでなく、今の千葉、神奈川、静岡あたりまで)で採れた魚で、幕府に献上するものを除き、余ったものを売り始めたことでした。

■魚河岸のにぎわいは歌舞伎や吉原と並ぶ!?

元禄(1688~1704年)のころには、魚河岸が大きなにぎわいを見せ、「朝千両(魚河岸)、昼千両(芝居・歌舞伎)、夜千両(吉原)」と言われたそうです。歌舞伎や吉原も江戸を代表するものですから、魚河岸のにぎわいのすごさがわかりますよね。

一日に千両ものお金が動いたと言われ、魚河岸の有力な問屋は、歌舞伎のスポンサーでもあったと言われています。



■江戸中期以降には、庶民も魚を食べるように

江戸中期以降からは、漁業と流通が安定したことを受け、庶民も普通に魚を食べるようになっていきました。魚河岸の問屋から仲買、小売りを経由し、庶民のもとへ魚が届けられました。


ちなみに、儒学者の寺門静軒(てらかどせいけん)が天保2(1831)年に書いた『江戸繁昌記』という書物の中には、「鮮魚を嗜(たしな)み、常に言ふ、“三日肉食せざれば、骨皆離る”と」という一文があります。

これは、「3日魚を食べなければ骨がばらばらになる」と口癖のように言っていたという意味で、ここからも江戸の庶民が魚を食べることが普通であったことが見て取れます。

いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも日本文化や歴史の面白さに興味を持つきっかけになれば嬉しいです。

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

編集部おすすめ