元は公家出身のヤンチャ小僧!最後の元老・西園寺公望はどのような政治家だったのか?【中編】
■「内閣の毒殺」から「元老」へ
その後、1908年5月、衆議院選挙で政友会は勝利しますが、その二カ月度に第一次西園寺内閣は退陣しました。退陣の理由は健康悪化とも元老たちの圧力とも言われています。
次は桂太郎が首相になり、議会の多数派だった政友会と協力しながら政局を乗り切りました。しかし伊藤博文暗殺や大逆事件、南北朝正閏問題が重なって、桂内閣は総辞職します。
ここで原敬と桂は会談し、桂太郎が再び総理にならないという誓約を得て、政権はまた政友会に譲られました。
こうして二次西園寺内閣が成立したものの、陸軍による軍拡要求で閣内の意見の不一致が生じ、第二次内閣は1912年12月に瓦解し西園寺は政界を去ります。この、政権の内部崩壊は当時「内閣の毒殺」と呼ばれました。

「内閣の毒殺」の元凶となった上原勇作陸軍大臣(Wikipediaより)
彼はは政界から引退した後、最重要の重臣である「元老」として君臨することになります。
■元老としての西園寺公望
さて、明治天皇が崩御すると、1912年8月時点で生存していた山縣有朋・松方正義・井上井上馨・大山巌・桂太郎、それに西園寺の六人が元老となります。その後、1924年の政変時には、山縣・井上・大山・桂は死去しており、病床にあった松方も七月に死去しました。
こうして、西園寺公望は日本史上最後の元老になり、宰相の指名権を事実上独占する形になりました。
第一次世界大戦終結後の1919年に開催されたパリ講和会議では、全権首席として出席しています。

パリ講和会議の海上となったフランス外務省(Wikipediaより)
会議場に、西園寺は会議が始まってだいぶ時間が経ってから会場に到着しました。これは西園寺の出席の決定と、そのための準備に時間がかかったためでした。
西園寺は元老として宰相指名権を掌握したものの、それぞれの状況で無理のない範囲で適切な人選をするにとどまり、状況を作り出すような努力はしていません。悪いことは何もしなかったのですが、文官として強い積極性を持って政治に臨んだとも言えないでしょう。
■暗殺・テロの時代へ
1928年6月4日に、後の満州事変へとつながっていく遠因になった張作霖爆殺事件が発生しました。事件直後から、西園寺は事件の犯人は関東軍であることに気付いており、当時の田中義一首相に犯人処罰を勧告しています。
しかし関係者は田中に責任を取らせることを考えており、西園寺はそれに反対しましたが、田中は昭和天皇の不興を買って、最終的には事件の責任を負う形で辞任。これが、昭和天皇の権威が軽視されて、陸軍が暴走していくきっかけにもなりました。

田中義一像
1932年5月15日、青年将校が首相官邸を襲撃し、犬養毅首相が射殺される五・一五事件が発生しました。この事件により政党政治は大きな衝撃を受け、陸軍が実権を握る国粋主義的な動きが活発になり、西園寺もそうした動きを無視できなくなります。
この頃から、日本は要人暗殺が頻発するテロの時代に突入。西園寺も何度も命を狙われ、1932年の血盟団事件ではターゲットの一人にされており、1934年と1935年にも暗殺を画策する者が検挙されました。
その後、満州事変や日中戦争を経て、日本の内政は混乱に陥ります。そんな中で、西園寺は1937年に陸軍の横暴を押さえるべく宇垣一成を首相に推奏したものの、陸軍統制派の妨害によって失敗します。
この時期、西園寺が首相候補の「切り札」としていたのが近衛文麿でした。しかし実際に首相になった近衛は陸軍の言いなりで、日中戦争の泥沼へと足を踏み入れる結果になります。
それからも政権が次々に後退する中で、第二次近衛内閣の推薦について同意を求められたもののこれを拒絶。反対し続けてきた日独伊三国同盟の成立時には「馬鹿げたこと」と嘆き、いわゆる大東亜戦争が勃発するほぼ一年前の1940年11月に没しています。
参考資料
八幡和郎『歴代総理の通信簿』2006年、PHP新書
宇治敏彦/編『首相列伝』2001年、東京書籍
サプライズBOOK『総理大臣全62人の評価と功績』2020年
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