その人物は富田信高(とみた-のぶたか)の妻。
■正体不明な女性
宇喜多忠家/Wikipediaより
信高の妻は、名前や生年が不明であり判明していることとして、父親が宇喜多忠家で夫が富田信高ということです。
また、夫の信高は父の富田一白が織田信長、豊臣秀吉と仕えていたこともあり、自身も父に同じく秀吉に仕官。これといった活躍はしておりませんが、一白が秀吉の側近だったこともあり、厚遇されていました。
そして、慶長4年(1599)に一白の隠居に伴い、一白が城主だった安濃津城と家督を継承しました。
■勃発!安濃津城の戦い

毛利秀元/Wikipediaより
慶長5年(1600)、徳川家康が上杉討伐のため、会津へ軍を向けると信高も従軍。300人の兵を率いて遠征しました。
途中、石田三成が挙兵すると、東軍として西軍を迎え撃つことを誓い、安濃津城へ戻りました。
信高は城の防備を固めていましたが、毛利秀元率いる3万の大軍が迫っていることの報告を受けます。
対する信高が率いる兵数は、援軍として合流した分部光嘉(わけべ-みつよし)の兵を含めて1700人とあまりにも寡兵。
そのため、信高は家康に救援に来てもらうよう要請を出します。しかし、西軍によって阻まれてしまい、信高は約17倍近くの兵数差での籠城戦を強いられました。
■富田信高の妻、出陣

富田信高と妻/Wikipediaより
戦いが始まると、信高と光嘉は兵を率いて迎え撃ちます。しかし、光嘉は毛利家臣との一騎打ちで重傷を負い、信高も兵に囲まれる危機的状況に陥ります。
その時、容姿端麗な若武者が単騎で救援に駆けつけました。
信高たちは若武者のおかげで窮地を脱しましたが、この若武者こそが信高の妻でした。
信高の妻は、夫が討ち死にの危機と言うことを聞いて、居ても立っても居られず救援に動いたということで、信高は相当愛されていたことがわかります。
また、信高の妻は秀元の家臣を討ち取ったと言われているので、武勇に秀で射ていたことがうかがえます。
しかし、劣勢であることは変わらなかったので、安濃津城の戦いは信高たちの降伏により東軍の敗北で収束しました。
■妻の慈愛により改易

坂崎直盛/Wikipediaより
安濃津城の戦い後、信高は出家しました。しかし、関ヶ原の戦いが東軍の勝利で終わると、本領を取り戻しました。
その後、慶長13年(1608)に伊予板島城に転封となり、後に宇和島藩を立藩。安濃津城の戦いの敗北から一転、藩主としての人生を歩みました。
しかし、それも長くは続かず、慶長18年(1613)にある事件が起こります。
それは、信高の妻が密かに行っていた甥の宇喜多左門の支援が江戸幕府に発覚したことでした。
宇喜多衛門は信高の妻の弟・坂崎直盛の衆道相手を奪った末に、衆道相手を殺害した直盛の家臣を殺害した大罪人。
そんな左門を支援していたことで、江戸幕府より改易処分を下されてしまうのでした。
しかし、実のところは大久保長安事件に連座したことが改易の理由という説が有力視されています。
■最後に
信高の窮地に駆けつけると共に、甥を密かに支援したことから、信高の妻は家族への思い入れが相当深いということがわかります。
だから、無謀な単騎駆けで信高を救いに行ったのだと考えられます。
ただ、その思いの深さで改易にしてしまったのは、何とも言えない気持ちになったのは言うまでもありません。
参考:朝重かおる、渡邊大門『戦国姫君イラスト大辞典』2010年、洋泉社
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