絶世の美女と呼ばれた京都祇園の芸妓だった彼女。とにかくモテモテ、しかも相手は大物ばかり、という人生を送りました。今回の記事では、そんな江良加代(えらかよ)さんに迫っていきたいと思います
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■出自・容姿・芸事も完璧
江良加代(えらかよ)は、文久2年(1862年)に生まれました。彼女の母が華頂宮(かちょうのみや)家に使えていたこともあり、出自も恵まれていました。また、幼いころから容姿が美しかっただけでなく、芸事にも優れていたとか。

江良加代
■お座敷デビューし、売れっ子に
江良加代の生家が京都・祇園社の近くで、花街に近かったこともあり、彼女は祇園・井筒屋からお座敷デビューを果たします。
彼女の美貌・才能はまたたくまに京都中に広まっていきます。現代で言うところの芸能人のような存在に近かったのではないでしょうか。
そんなうわさを聞きつけてやってきたのが、後に内閣総理大臣となる西園寺公望(さいおんじきんもち)でした。
■西園寺家の事情で破局
西園寺公望は江良加代にほれ込みます。彼女に恋をした西園寺は彼女を東京に連れて帰るのですが、西園寺家は「正妻を娶らない」という家訓があり、家族は大反対。西園寺公望はいやいやながら江良加代を祇園に返しました。
このとき、豪華な調度品や着物が送られたといいます。ちなみに、西園寺に見初められたときの江良加代の年齢は13歳でした。
■木戸孝允、伊藤博文が貢ぐ

江良加代
その後も大物たちからの熱視線はとまりません。木戸孝允とは結婚するかと思われましたが、1877年(明治10年)、直前になって木戸が亡くなってしまいます。
そして、女性好きといわれた伊藤博文も彼女にほれ込みます。
■最後は財閥のもとへ
江良加代の勢いはとまりません。最終的には三井源右衛門という三井財閥の一族で大物の男性の妾となり、余生を過ごします。妾という立場ではありましたが、彼女は大切にされたと言います。なお、彼女の子どもたちは財閥の跡取りや皇族になっています。
いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも日本文化や歴史の面白さに興味を持つきっかけになれば嬉しいです。
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