幕末の歴史をご存知の方なら、徳川慶喜が大政奉還に至るまでのいきさつは説明するまでもないでしょう。
[今さら聞けない幕末]どうして徳川慶喜は大政奉還をしたの?きっかけはあの幕末ヒーロー

邨田丹陵による「大政奉還図」(Wikipediaより)
この、大政奉還という行為は、今までは徳川慶喜が実権を維持するためのいわば「悪あがき」として見られてきました。
しかし現在の研究者の間ではそうは見られていません。むしろ、大政奉還は、慶喜が実権を維持するための行動として有効なものだったと考えられているのです。
その理由と、ことの経緯を解説しましょう。
■徳川慶喜という人物
幕末期、徳川幕府の態勢立て直しの期待を受けて第十五代将軍の座に就いた徳川慶喜。

征夷大将軍在任時の徳川慶喜(Wikipediaより)
彼は一般的に思われているよりも極めて優秀な政治家でした。
格闘技の達人で討論にも秀でており、常識はずれの胆力を備えていました。
さらに権謀術数においても全く迷いがなく、抜群の人脈と政治力を持つ人物だったのです。よって、幕府の立て直しを期待されるのも当然と言えました。
しかしそんな慶喜でも、当時の幕府を再建するのは大変に難しいことでした。
この頃の幕府は第二次長州征伐にも失敗しており、反対に、武力倒幕を目指していた薩長連合に追い詰められている状態だったのです。
そして最終的に、慶喜は土佐藩による提案を受け入れて、政権を朝廷へ返還する大政奉還を行うことを決断したのでした。
■大勢は慶喜に有利だった
さてそれで、この大政奉還ですが、一般的には当時の慶喜の思惑はこうだったと考えられています。
「長年、政治の表舞台から遠ざかっていた朝廷には、政権運営能力がない。よって政権を返還されたところで国家運営はできず、結局幕府が頼られて再び実権を握ることになるだろう」――。
しかしこうした思惑も大久保利通や西郷隆盛は先読みしており、慶喜の目論見は見事にはずれてしまった。これが、大政奉還に関する一般的なイメージです。

禁裏御守衛総督時代の慶喜(Wikipediaより)
実際、その後の全体的な歴史の流れを見れば、最終的に彼の目論見が外れてしまったのは確かです。大政奉還が行われた後、幕府に政治の実権が戻ってくることはありませんでした。
しかし現在の研究では、大政奉還が行われた直後の政治状況は非常に複雑で、むしろ慶喜の方に有利に動いていたと言われています。
大政奉還の本当の目的は「朝廷への降伏」「悪あがき」などではありませんでした。実は、政権を自ら返上してしまうことで、薩長の武力倒幕を未然に防ぐことこそが慶喜の本当の目的だったのです。
先に、全体的な歴史を見れば政治の実権が幕府に戻ってくることはなかった――と述べましたが、実は大政奉還が行われた当初は、公武合体派の有力大名は慶喜の決断を非常に高く評価していました。
もともと、朝廷と幕府が手を結んでともに政治を行うのが妥当だと考えていた公武合体派の人たちは、慶喜が新政権で国家運営のかじ取りを行うことを歓迎していたのです。
そして、こうした動向は西郷・大久保にも伝わっており、彼らは蚊帳の外に置き去りにされる形になったのでした。
この時の詳しい状況については、【中編】で詳しく説明します。
【中編】の記事はこちらから
参考資料:
日本史の謎検証委員会『図解 幕末 通説のウソ』2022年
倉山満『日本史上最高の英雄 大久保利通』徳間書店、2018年
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