■「明治政府」最初の会議にて

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したたかで狡猾、有能な徳川慶喜。「大政奉還」直後、政争は慶喜に有利に動いていた?【中編】
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さて、王政復古の大号令は別名を王政復古のクーデターともいいますが、この大号令が発令された12月9日の夕方に開かれたのが「小御所会議」です。
いわばこれは、新政府最初の会議というべきものでした。

したたかで狡猾、有能な徳川慶喜。「大政奉還」直後、政争は慶喜に有利に動いていた?【後編】


現在の小御所(Wikipediaより)

これには、明治天皇が臨席して後の新政府首脳や公家、雄藩の実力者たちが出席しました。慶喜の姿はここにはありません。

そして今後の国家運営のあり方が相談されたのですが、ここで徳川家の所領と慶喜の官位の没収が話し合われます。

しかし、松平春嶽と前土佐藩主の山内容堂は不満でした。彼は大政奉還の功労者である慶喜を会議に、ひいては新政府へ参加させるべきだと述べます。ちなみに酒好きの容堂はこの時もしっかり酒に酔っていました。

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山内容堂の像

それでも辞官と納地の奏請は決定事項となり、薩摩藩によるクーデターはひとまず成功した形でした。

しかし慶喜はこんなことでは負けていません。まるで王政復古など意に介していないかのように、さっそく逆襲を始めるのです。



■徳川慶喜の逆襲

まず慶喜は、王政復古の翌日には、なんと自分の呼称を「上様」とすることを宣言しています。

そして慶喜の味方だった松平春嶽は、一度は大坂に入って情勢を見定めたらどうか、と進言しました。
これを受け入れて、慶喜は二条城を出ると大坂城へ移ります。

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慶応3年(1867年)大阪での慶喜(Wikipediaより)

そして逆襲が始まりました。慶喜は大坂城にこもると兵を集結させます。そして、内大臣は辞任するものの、前官礼遇を求めるという条件をつけます。

さらに慶喜だけではなく、味方の土佐藩も動きました。山内容堂と後藤象二郎は公家たちを動かして、薩摩藩の孤立化をはかります。前述の春嶽も、容堂とともに小御所会議の決定を空文化させようと奮闘しました。

こんなこともあって、気が付けば、討幕派だった朝廷内で大久保利通と岩倉具視は孤立していました。二人だけが一生懸命に陰謀を組み立てているだけで、周囲は皆、慶喜を支持しているのです。

さらに慶喜は、江戸幕府が敷いていた統治機構を活用し、全国支配を継続することをほのめかします。

また16日には、アメリカ・イギリス・フランス・オランダ・イタリア・プロイセンの六か国の公使と大坂で会談。今後も政権を担当すると表明し、幕府による外交権保持を承認させました。


では朝廷にはどう出たかというと、「幕府は廃止となるが、これまでの良い制度は残す」と主張します。しかも19日には王政復古の大号令の撤回も求めています。

さすがに大号令の撤回には至りませんでしたが、朝廷は「大政委任」の継続は承認しました。

慶喜は一歩も退いていませんでした。それどころか、どこまでも自分が有利になるようにことを進めていたのです。

そして23・24日には再び首脳会議が開かれ、先の小御所会議の決定が覆されます。慶喜に対する処分は緩和され、土地の提供も有力大名の議論を踏まえて決めることになったのです。



■薩摩藩の挑発と出兵

この時、西郷や大久保などの藩士クラスは完全に蚊帳の外で、中心となっていたのは公武合体派の大名や皇族たちでした。

討幕派はこの状況に不満を抱きます。強硬派は関東で挙兵し、江戸市中で犯罪行為を働きました。これらを煽動したのは薩摩藩です。慶喜による巻き返しに対抗するべく、大久保利通が西郷隆盛を頼り、西郷が工作員として動いたのでした。


したたかで狡猾、有能な徳川慶喜。「大政奉還」直後、政争は慶喜に有利に動いていた?【後編】


西郷隆盛のお墓(鹿児島県)

結果、江戸の町は強盗や火付けで荒らされます。いわばこれは幕府を挑発する行為だったのですが、これに堪忍袋の緒が切れた佐幕派である庄内藩兵は、江戸の薩摩藩邸を焼き討ちにしました。

そしてこれがきっかけで、慶喜も京への出兵を決断。1868年、ついに「討薩の表」が発せられ、旧幕府軍は大坂城を出て京都へ向かったのです。

こうして見ると、大政奉還は慶喜の「悪あがき」どころではなかったことが分かりますね。

最初から慶喜は、討幕派の牙を折る、あるいは肩透かしを食らわせるための暗闘を展開させており、大政奉還もその一環だったのです。

実際、それによって多くの大名たちが慶喜の味方につきました。もちろん歴史の流れの全体を見れば、慶喜は最終的には敗北してしまうのですが、少なくとも彼は、一般的なイメージよりもはるかにしたたかで狡猾、そして有能な人物だったのです。

参考資料:
日本史の謎検証委員会『図解 幕末 通説のウソ』2022年
倉山満『日本史上最高の英雄 大久保利通』徳間書店、2018年

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