しかし、忠義の尽くし方は一様ではなく、主君の性質に応じて使い分けるべきという考えもあります。
今回は江戸時代の武士道教本『葉隠(葉隠聞書)』より、こんな教訓を紹介。現代社会でも、応用がきくのではないでしょうか。
■2種類の主君に合わせた忠義の使い分け
主君の気質に合わせた奉公を(イメージ)
一二 内気に陽気なる御主人は随分誉め候て、御用に越度なき様に調へて上げ申す筈なり。御気を育て申す所なり。さて又、御気勝、御発明なる御主人は、ちと、御心置かれ候様に仕懸け、この事を彼者承り候はば何とか存ずべしと思召さるる者になり候事、大忠節なり。斯様の者一人もこれなき時は、御家中御見こなし、皆手揉と思召され、御高慢出来申し候。【意訳】やさしくて気性のおだやかな主君に仕える時は、何かにつけてお誉め申し上げ、お勤めに失敗のないよう気配りをして差し上げなさい。その積み重ねが、主君の自信につながるからです。上下に依らず、何程善事をなし候ても、高慢にて打ち崩すなり。右のあたり眼のつく人なきものなり。……
※『葉隠聞書』第二巻より
一方で、勝ち気でキレ者の主君に仕える時は、一目置かれる油断ならぬ者として接しなさい。敬意は十分もちながらもある種の緊張感を絶やさぬようにすることです。
もし、そういう存在がいないと、主君は「誰も自分には逆らえず、家臣たちは揉み手で媚びへつらう者ばかりだ」と思い上がってしまうでしょう。そうなるともう目も当てられません。誰の言うことも聞かなくなってしまい、最後は暴走するまま誰も止めることなく大失態を犯してしまうでしょう。
それを防ぐためにこそ、常に油断ならぬ存在たらんと心がけねばならないのです。
■終わりに
たとえ理不尽な仕打ちを受けようと、お天道様は見てござる(イメージ)
主君を思えばこそ、主君にとって油断ならぬ存在であろうと努める。たとえ真意が伝わらなかったとしても、解る人には解るものです。
我が身の出世や保身だけを考えて主君に取り入るのは、かえって組織のためになりません。
組織や事業全体を俯瞰すればこそ、あえて主君の意に染まぬ態度もとり得る。
※参考文献:
- 古川哲史ら校訂『葉隠 上』岩波文庫、2011年1月
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